1. 全国大会
  2. 第50回 全国大会
  3. <第2日> 10月9日(日)
  4. シンポジアムⅠ(関西支部発題)(A301教室)

シンポジアムⅠ(関西支部発題)(A301教室)

音楽を通して読む<前衛>のアメリカ

司会・ 講師
神戸市外国語大学 辻本 庸子
ケイト・ショパンの「動物目線」
講師
京都大学名誉教授 福岡 和子
メルヴィルと動物表象
近畿大学 辻 和彦
マーク・トウェインと犬を巡る言説について
明治大学 波戸岡景太
Fangを持つもの、持たざるもの——ピンチョン文学における〈野性〉の表象
コメンテーター・講師
名古屋工業大学 藤岡 伸子(比較文化史)
不敵な動物たち:ソローとその末裔たちの動物観
京都大学 菅原 和孝(文化人類学)
アフリカ狩猟採集民の動物をめぐる認識と実践——グイ・ブッシュマンの談話分析から—



2011年3月11日に東北、関東地方を襲った大地震、大津波。それに続く福島第一原子力発電所の事故。いまだ過去形では語れない想定外と言われる天災、人災の被害は、おびただしい数の人々の上に及ぶ。さらにその被害は動物たちの上にもふりかかる。放射能汚染区域に放置された動物や、汚染水が放水された海に住む魚への被害のニュースを耳にするたび、いかに我々が他の動物たちの生を大きく支配しているか、あらためて痛感させられる。ダナ・ハラウェイは「我々は、動物という鏡を磨いて、我々自身を見いだそうとする」と述べている。それほど深くかかわり合う「ヒトと動物」。本シンポジウムでは、この「ヒトと動物」のかかわり合いを、2つのベクトルを通してとらえてみたい。

まずはアメリカ文学に描き出されている動物表象のベクトルである。ここではさまざまな時代のさまざまな作品に表出されている「ヒトと動物」の関わりに着目する。ポーは「モルグ街の殺人」というはじめての探偵小説で、オランウータンを犯人に仕立てた。ソローはウォールデンにおいて、野生動物や自然とふれあい、世界と感応し合う自己を見つめた。メルヴィルは大海原のクジラを小説の主人公とした。これらの作品において動物たちは重要な主人公として登場していながら、正面から照準をあてられることはあまりなかったように思う。人種、ジェンダー、階級、その時代の思想や学説、経済や政治状況など様々な要因と関連づけながら、アメリカ文学のいくつかの作品における動物表象の検証を試みる。

第二のベクトルでは、これら文学における動物表象の考察を、生きた動物とより深い関わりを持つ専門領域の研究と交差させる。霊長類研究、文化人類学という分野からの提言、さらには環境学、環境運動における比較文化史という分野からの提言。これら学際的な交差線の中から「あめりか・いきものがたり」と呼ぶべきものが聞こえてきはしまいか。自然保護運動発祥の地の「いきもの」が発する声に真摯に耳を傾け、そこから「ヒトと動物」のありかたを、ひいてはヒトのありかたを、今一度再考することができればと思う。



神戸市外国語大学 辻本 庸子

 

ケイト・ショパンは代表作『目覚め』(1899)の出版前後に、人間のような動物(馬)や、動物のような人間を主人公とする短編を著して、人間の持つ「アニマリズム」に焦点をあてている。彼女が時代に先駆け、女性として、また個としての「目覚め」を小説化した作家であったことは、いまさら言うまでもない。大胆に女性のセクシャリティも描きだした。しかしそれだけでなく彼女には「動物目線」ともいうべきものがあったように思う。単に動物愛護や動物好きというのではない、己れが動物として視るという意識のあり方。

19世紀末、ダーウィンに続く多くの科学者たちが、女性は男性とは異なり、動物なみの劣等人種だと公言した。その種の見解は、アリストテレスから始まる長い歴史を持つ。だからこそC・J・アダムスは、『女性と動物』(1995)の序において、「動物を理論づけることがフェミニズムにとって不可欠なことだ」と述べている。

女性の、そして人間の持つ動物性を肯定する。いや、むしろ動物のようにあることにこそ意義を認める、そのような作品を書いたショパンが当時、強い批判を浴びたことは至極当然といえるだろう。彼女の作品における動物表象に着目し、その「動物目線」を考察してみたい。


京都大学名誉教授 福岡 和子

 

メルヴィルと言えば、いうまでもなく鯨を筆頭とした海に生息する様々な動物たちが想起されるが、彼の作品には他にも陸の動物、しかも我々人間にとってごく親しい犬や鶏や馬なども登場する。それらの動物は「表象」として、形而上学的問題から文明諸国の植民地政策や、人種問題、経済格差など、様々な問題を取り扱おうとするメルヴィルに対して、有効なツールを与えてきた。メルヴィル作品におけるそれらの動物表象の多様性はもっと注目されてしかるべきであろう。しかし同時に、メルヴィル作品の場合、人間による動物表象の恣意性そのものを問題視していることが少なくない点にも留意しなければならない。動物が時には、その存在を強く主張してくるのである。そうしたメルヴィルの動物の扱いが、当時のアメリカ社会にあっては、いかに特異なものであったかを知るために、当時流布していた動物イデオロギーとでも呼べるものについても言及したい。それは、リディア・H・シガーニーや、リディア・M・チャイルド、ハリエット・B・ストウといった女性流行作家たちが声高に様々な媒体を通じて唱道した“the domestic ethic of kindness”である。19世紀アメリカに形成されたミドル・クラスの家庭に浸透し、今で言う「ペット」を飼うことを広めることにもなったものだが、そうした同時代の動物愛護のイデオロギーと対置される時、メルヴィルが動物と人間の関係をいかにとらえていたかが、より鮮明にされることになると思う。


近畿大学 辻 和彦

 

作家マーク・トウェインは、中西部のミズーリ州の農村地出身のため、幼年時代から「猫、馬、豚はおろか、蚊、蝿、蟻、魚、蛙、蛇、蝙蝠、蜂」に囲まれて生まれ育った。彼が全米で注目を集めた短篇「ジム・スマイリーと彼の飛び蛙」(1865年)でメジャーデビューを果たしたのは、決して偶然ではなく、この中に登場する「蛙、馬、甲虫」などの生物への注視が当時としても興味深いものであったことが推測される。それらの表象は、やはり幼い頃からの体験に由来するものであろう。

彼はその後も自作の中で積極的に「生き物」を登場させた。彼が世界中を旅するにつれ、「駱駝、闘牛、白象、ツェツェ蝿」など、多様な生き物が彼の作品で描かれることになる。また私生活においては、彼の子供達が幼い間は、たくさんの猫を自宅で飼っていた。だがその後の彼の人生並びに作品を分析する際に、特に「ダーウィニズム」の関連において浮上するのは、むしろ「犬」である。トウェインは時に「犬」をセンチメンタリズムの手法で描き、また時に「人間」への強烈な批判者として作品に登場させた。

本発表ではこうした「犬」に焦点をあて、トウェインの動物に対する考え方、もしくはその生物観に迫りたい。 


明治大学 波戸岡景太

 

ひとつの小説空間に無数の〈人間〉を描き込むことで知られるトマス・ピンチョンは、それと同じ数だけの〈動物〉をテクスト上に創造してきた。彼らはたいてい、啓蒙主義以降の世界システムからドロップアウトした都市伝説的な存在に近しいもので、具体的な例を挙げるなら、下水道に棲む鰐であるとか、パブロフ派の学者に調教された巨大ダコであるとか、あるいは流暢な英語を操るテリア犬やヘンリー・ジェイムズを愛読する犬といったものがその主なメンバーとされる。これらピンチョンの動物たちは一様に、〈理性〉の中で逆説的に成立した〈野性〉というものを表象しているのだが、そのように転倒した〈野性〉の在り方は、 “Fang”(牙)という概念にあらためて統合される。理性的な〈人間〉に対して“Fang”を隠し持つものであるピンチョンの〈動物〉たちは、いかにして彼らを主体とする対抗的な世界システムを築きあげるにいたったのか。本発表では、デビュー長編『V.』から最新長編『インヒアレント・ヴァイス』にいたるピンチョン文学を、このような観点から再読してみたい。


名古屋工業大学 藤岡 伸子

 

ソローの名と共に誰もがまず思い浮かべるのは、ウォールデン湖周辺の水辺や森の風景であろう。季節の移り変わりが織りなす自然美と渾然一体となる幸福な時の描写が『ウォールデン』の中には数多くちりばめられており、それが作品の一番の魅力となっていることは間違いない。しかしこの作品には、森の風景の甘美で柔らかな味わいとは対照的に、まるで異物のような、堅く不快な感触を読者に残す生き物たちがしばしば登場してくることに注目したい。近代主義は17世紀の中葉に西ヨーロッパで誕生し、ある種の「繁栄」を世界中にもたらしてきた。そして、世界を改変可能なモノの集合体であると見なすそのデカルト主義的世界観は、そのアンチテーゼとして、ロマン主義を生み出した。たしかにソローはその流れの中で出発した。しかし彼は、ロマン派的な「自然との幸福な合一」という自然観を程なくして抜けだし、極めて今日的な生物多様性の地平へと急速に近づき、そしておそらく「今」をも通り越した先で私たちを待っている。20世紀末の環境主義の台頭以来、様々に予想されてきた近代の最終相に、私たちは今まさに出くわしているのだろう。だがその一方、次の時代の新たな世界観を未だ明確なものとして持ち得てはいない。そこで、ソローの世界に頻繁に現れては消える、不気味で不敵な動物たちに注目してその先駆的な世界像を今新たになぞり直すことにより、次の時代を生きるための新たな世界観の感触を確かめたい。さらに、ソローの系譜に連なるアルド・レオポルド、バリー・ロペス、E.B.ホワイトらが紡いだ動物の物語も視野に入れながら、私たちが今、動物を語ることの意味そのものを問い直したい。


京都大学 菅原 和孝

 

私は、1982年よりアフリカ南部のボツワナにおいて、グイ(|gui)というブッシュマン の一言語集団において、人類学的な研究を行なってきた。本報告では、日常会話(1987〜1992年)と生活史の語り(1994年?現在)の分析に基づいて、乾燥サバンナの狩猟採集 民と動物との関わりの特質を照らし出す。

まず動物に関わるグイの民俗分類を概説する。グイには、生活形(life form)を表わす、「鳥」(zera)、「魚」(?k’au)、「ヘビ」(|qx’ao)といった語があるが、日常的には「食うも の」(kx’oo-xo)、「咬むもの」(paa-xo)、「役立たず」(goowaha)という3つの機能的カテゴ リーがよく用いられる。

グイの動物への認識と実践を組織するもっとも重要な軸は食物規制である。なかでも重 要なのが、somoと呼ばれる「老人と幼児の肉」に関わる禁忌である。この禁忌の中心をなすアフリカオオノガン(?geu)は過去に間欠的に挙行された男の成人儀礼にとって重要な 意味をもっていた。青年が同輩を出し抜いてこの禁忌を破るとき、!n?re(「感づく」)という独特の作用が異なる身体のあいだに働く。これは「予感する」ことでもあり、人間、動 物、物(道具)を包みこんだ交感の回路を意味する。

狩猟者は、原野で、動物の形態や行動にまつわる様々な異常に遭遇する。暫くして別の キャンプで親族や知人が死んだという知らせが入ると、「あの異常こそがziu(凶兆)をおれに告げていたのだ」と回顧的に解釈される。これは「自分が立ち会えなかった死」に対 する独特な想像力の投射であり、私たちの「虫の知らせ」と類似している。

さらに、グイにとって鳥たちは、いろんな告知をもたらす。同時に、彼らは鳥の習性や 形態の起源を説明する夥しい民話と神話をもっている。ここから、神話的な想像力と経験 的な観察とが相互補強的な関係にあることが見えてくる。

また、「咬むもの」(猛獣や毒蛇)が男を襲うことのなかには、翻訳の確定できない不可 視の作用c?maが働いている。その外延を列挙すると、「女が男に対して揮う魔力」および 「食物禁忌を破ることによる発狂(動物の憑依)」という二つの系が認められる。

最後に、19世紀のブッシュマンのフォークロアにまで遡り、狩猟採集民と動物の関わり を根源的に動機づけるライトモティーフが「変身」の可能性であることを論じる。