明治大学 波戸岡景太
ひとつの小説空間に無数の〈人間〉を描き込むことで知られるトマス・ピンチョンは、それと同じ数だけの〈動物〉をテクスト上に創造してきた。彼らはたいてい、啓蒙主義以降の世界システムからドロップアウトした都市伝説的な存在に近しいもので、具体的な例を挙げるなら、下水道に棲む鰐であるとか、パブロフ派の学者に調教された巨大ダコであるとか、あるいは流暢な英語を操るテリア犬やヘンリー・ジェイムズを愛読する犬といったものがその主なメンバーとされる。これらピンチョンの動物たちは一様に、〈理性〉の中で逆説的に成立した〈野性〉というものを表象しているのだが、そのように転倒した〈野性〉の在り方は、 “Fang”(牙)という概念にあらためて統合される。理性的な〈人間〉に対して“Fang”を隠し持つものであるピンチョンの〈動物〉たちは、いかにして彼らを主体とする対抗的な世界システムを築きあげるにいたったのか。本発表では、デビュー長編『V.』から最新長編『インヒアレント・ヴァイス』にいたるピンチョン文学を、このような観点から再読してみたい。