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司会 | 内容 |
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三杉 圭子 |
1.The Spider's House におけるセクシュアリティ—近代化に隠れたボウルズの実態 外山 健二 : 流通経済大学(非常勤) |
2.スペクタクルの社会における作家たち−Don DeLilloの MaoⅡとPaul Austerの Leviathan を中心に 下條 恵子 : 福岡女子大学(非常勤) |
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柴田 元幸 |
3.約束された「アメリカ」の脱臼— Leviathan における「落下」 内田 有紀 : 大阪外国語大学(院) |
4.アメリカの追求—アメリカ的書物、Arc d'X にみるジェファーソンの遺産 岡本 太助 : 大阪外国語大学(院) |
外山 健二 流通経済大学(非常勤)
Paul Bowles(1910-1999)の作品に The Spider’s House (1955)がある。Bowlesは1954年、The Spider’s House の舞台であるフェズに行き、メディナ(旧市街)がフランス軍に包囲されるのを目撃している。モロッコは1912年フェズ条約によってフランスに植民地化され、1956年にフランスから独立する。このような状況からも、The Spider’s House をフランス宗主国によるフェズ解体の物語と位置づけることはできる。Bowlesが序で「自分が書きつつあるのがフェズの伝統的な生活様式などではなく、その解体の過程である」と書いたからでもある。ポストコロニアル批評に立てば、その解体の過程から生じる、モロッコのイスティクラール党(独立党)の動きから植民地下の社会や文化を The Spider’s House から読みとることは可能である。
The Spider’s House の読みを以上のことだけに留めておくことはできない。主人公のムスリムAmarに注目するのである。Amarはメディナに住むが、新市街をいったん彷徨するや、メディナに戻ろうとしない。フランス宗主国の新市街に留まるAmarは、メディナに帰還しないムスリムである。Amarの新市街への同化により、フランスがもたらす「近代」を受容しているかのようである。Amarは、新市街において、アメリカ人Stenhamと偶然に出会い、彼を味方につける。アメリカという西洋を保持するAmarは、フランスの「近代」と遭遇しつつ、ムスリムの父親から継承するバラカ(聖なる力)を持つ聖者としての存在から距離を置く。
こう考えれば、Amarの「近代」化を、さらには、イスラームの「近代」化を The Spider’s House から読むことになる。ここで問題が生じる。なぜ、AmarはStenhamと偶然に出会うのか。メディナを脱出するAmarであるが、メディナには彼を抑圧する何かが隠れているのか。AmarのStenhamとの偶然の出会いが関係するとすれば、モロッコ独立の動きに見られる「近代」化という覆いに隠れる登場人物にまつわる具体的な描写に注目しなくてはいけないだろう。
登場人物に関する描写を軸に、イスラームの近代化に隠れる要素を顕在化することになる。AmarをBowlesとホモセクシュアルな関係で、モロッコに住むAhmed Yacoubiと捉え、アメリカ人StenhamをBowles本人と考えるのである。そのことで、近代化のモロッコにおけるBowlesのセクシュアリティという実態に迫るのである。本発表は、登場人物にまつわる描写の欠如やそこから見える「人間関係の希薄さ」などを、フランス権力という暴力と「欲望」との関係で読み解き、The Spider’s House を、セクシュアリティの視点から見直す試みである。
下條 恵子 福岡女子大学(非常勤)
20世紀は映像の世紀といわれ、フランス人思想家Guy Debordも「スペクタクルと実際の社会的活動とを抽象的に対立させることは出来ない。現実はスペクタクルのなかに生起し、スペクタクルは現実である」と述べながら劇的なイメージの複合体が現実世界を形成していることを指摘している。Don DeLillo(1936- )の MaoⅡ (1991)とPaul Auster(1947- )の Leviathan (1992)は、あの9/11が作家たちに突きつけた問題、つまりテロリズムという暴力的スペクタクルに対峙する文学の可能性もしくは限界というテーマを予見的に扱った作品であるといえよう。
DeLilloの MaoⅡは映像の支配する社会を舞台とした作品といえる。中心的人物であるBill Grayは、隠遁作家として自作の仕上げに取り組んでいたが、写真家Britaの被写体を務めたことをきっかけに執筆から離れてしまう。彼はテロリズムに抵抗する文学運動のイコンとして人質解放劇に加担するものの、計画の途中で命を落とすのである。DeLilloに捧げられたAusterの Leviathan は、プロットや人物設定などにおいて基本的に MaoⅡ を模倣している。2作品とも作家に向けられたカメラが銃や武器のイメージで描かれ、映像化社会に組み込まれることによって生じる作家の死を問題とする。
しかし、この2作品はスペクタクルの社会における文学の可能性に関しては大きな違いを見せる。MaoⅡ では、物語自体がイメージのコラージュ的描写、メディアの宣伝文句などの蓄積によって形成されており、作品自体がスペクタクルによって形成された現実を体現している。またメディア世代の申し子KarenがGrayの文学世界と映像化社会を自由に行き来するメシア的存在として登場し、文学と現代社会の対話の可能性を示唆してもいる。一方 Leviathan においては、物語はSachsの友人であり作家でもあるAaronの筆により進行する。Aaronは家族・友人といった小さなコミュニティと文筆活動を自己の世界の中心に置いており、その世界は文学への言及を多用しながら肯定的に描かれてはいるものの、スペクタクルの上に成立した現代社会とのつながりはほぼ断絶した状態にある。
本発表では、MaoⅡにおける文学と映像化社会の対話、Leviathan におけるその欠如を検証し、テロリズムというスペクタクルに対する作家たち、GrayとAaronの向き合い方を明らかにしたい。
内田 有紀 大阪外国語大学(院)
Paul Austerの第7作 Leviathan (1992)は、Benjamin Sachsが作家からテロリストへと転身する過程を、友人Peter Aaronが記憶をたどって書き綴る物語である。Aaronは、Sachsがテロリストへ転向することになったきっかけとして自由の女神像誕生100周年記念のパーティーで起こったSachsの落下事故を挙げている。「落下」のモチーフはAusterの作品に頻出するが、先行研究においては必ずしも十分に議論が尽くされていない。だが、「オースター・ワールド」の商標とも言うべき「偶然性」〈chance〉の語源が、「落下」を意味するラテン語〈cadere〉であることを踏まえると、「落下」のモチーフは、強烈なオブセッションとしてAusterの創造力の中核に取り憑いていることがわかる。本発表では、Leviathan の基軸をなすSachsの落下事件の場面解釈を通じて、Auster文学における「落下」のモチーフの意義を考察するとともに、9.11をも視野に入れ、アメリカ的創造力の文脈においてその定位を試みたい。
落下事件直前にMariaに性的に魅了されたSachsは、パーティー会場の非常階段の手すりに飛び乗り、故意に危うい姿勢をとることによって、彼女が自分を抱擁するよう仕向ける。彼は思惑通り彼女の抱擁を獲得するが、これはMariaがSachsのシミュレーション・モデルを結果的に模倣するというかたちをとる。このように現実を予言的に意味づけ、それを現実において発動させ、その内に自らをズラして囲い込むSachsは、モノに名前を与えることによって生命を与えるアダムを想起させる。アダム同様、Sachsはシミュレーションを現実に先行させ、予め方向付けを行う。
のみならずSachsの身体的な落下は、彼の発明した現実の攪乱を隠喩として示唆している。彼の「落下」には、失楽園のエピソードだけでなく、バベルの塔のエピソードとの関連も認められるが、Derridaによると、塔の混乱を名指す”Babel”という語は、父を意味する”Ba”と神を意味する”Bel”から成り立っている。つまり神あるいは父は、絶対存在を主張するまさにその名において、絶対存在の不可能性を既に宣告されている。これをSachsの「落下」に当てはめると、彼の発明品としての「アメリカ」は、常に/既に、デリダ的「脱臼」を経験する可能性をその内側に抱え込んでいると言える。Babelの塔の建築と崩壊が対をなすように、無垢な現実を発明する過程とその「脱臼」としての堕落もまた対をなしているのである。
後にSachsは、テロリスト「自由の怪人」として、自由の女神像のレプリカを爆破して回るが、この女神像は言うまでもなく「約束された」無垢なアメリカの実現を可視化したものに他ならない。だとすれば、「自由の怪人」は、アメリカのシミュレーション・モデルそれ自体に対して爆破を試みたと言えるのではないか。だが、彼のテロ行為は、その攻撃対象が複製可能なレプリカであるために、永遠に完遂されることがない。それどころか、その不毛なテロ行為は、アメリカの消費社会に回収され、資本主義を活性化するアイテムへといつしかコード変換されてしまう。逆説的に考えると、来たるべき純粋な現前としての「アメリカ」についての約束が認識上の転覆を経験するにもかかわらず、合衆国は、その「落下」経験をも新たな現実発明の材料にして、未来を志向し続ける。Sachsの身体的落下に予め先取りされたかのように、「アメリカ」の「落下」は、衝突の瞬間を永久に繰り延べられているのである。本発表では、このように地表に限りなく近づきながらも、未だ衝突を免れている「落下」という動態的視座より、9.11へと至る「アメリカ」を逆照射してみたい。
岡本 太助 大阪外国語大学(院)
Steve Ericksonの第四小説 Arc d’X (1993)は、Thomas Jeffersonの小説であると同時に、ある意味Jeffersonに書かれたテクストであるともいうことが出来る。さらには、「アメリカ」とは何かを探る物語である Arc d’X のエクリチュールそれ自体が、ひとつの「アメリカ」を作り出すパフォーマティヴな行為となっている。これらの主張は比喩的なレベルで交差するものであり、歴史上の人物としてのJeffersonと現代アメリカが自己規定のために参照するところの“Jefferson”との違いや、国家としての合衆国と記憶の産物としての「アメリカ」の分裂が持つ意味を、社会・文化現象と文学表現のレベルを往復しつつ論じるための視座を提供するものである。
社会・文化現象のレベルでは、Fredric Jamesonなどが指摘するような、ポストモダンにおける(つまり特に現代アメリカにおいて顕著な)歴史性の欠如の問題を論じる。しかし歴史性のという表現は(Jamesonも言うように)必ずしも適切ではない。例えば、過去を現在とは無関係なものとして切り離し忘却する一方で理想化された過去を捏造するような行為を、非歴史性として定義する一方で、それを における自己の意味づけを行うための歴史化の方策として捉えることが肝要である。こういった歴史意識を、Ericksonのいう「核の想像力」との対比で分析し、さらに現代アメリカにおける“Jefferson”の象徴的意味を確認したうえで、過去・現在・未来の関係をダイナミックに物語化するものとしての、Arc d’X の文学的表現へと議論を進める。
文学表現のレベルでは、夢や記憶の持つ流動性や捉えどころのなさを、Arc d’X のナラティヴの構造を決定する重要なメタファーとして位置づける。その際、まずJefferson自身によるアメリカの創作つまり独立宣言の執筆に着目し、そこに書かれたものとそこから抹消されたものの代補的な関係などの視点から、Jeffersonの「アメリカ」のフィクション性や決定不可能性を論じる。夢の特徴は、あるものの意味がそれ自体では決定されえず、常にそれ以外の何かとの関係においてのみ理解されるというところにあり、Arc d’X の構造もまた夢の論理を反復するものである。また、こことここではないどこか、今と今ではないいつか、自分と他の誰かが夢によって結びつくような構造は、さらに現代アメリカにおける“Jefferson”の受容/需要や歴史意識の構築とも密接に関わっている。本発表では、Arc d’X におけるこうした自己現前や意味決定の先送りを、Jefferson的、アメリカ的なものとして再定義し、「アメリカ」それ自体ではなく、それを追求する行為の持続のうちに生み出される歴史という観点を提示する。