外山 健二 流通経済大学(非常勤)
Paul Bowles(1910-1999)の作品に The Spider’s House (1955)がある。Bowlesは1954年、The Spider’s House の舞台であるフェズに行き、メディナ(旧市街)がフランス軍に包囲されるのを目撃している。モロッコは1912年フェズ条約によってフランスに植民地化され、1956年にフランスから独立する。このような状況からも、The Spider’s House をフランス宗主国によるフェズ解体の物語と位置づけることはできる。Bowlesが序で「自分が書きつつあるのがフェズの伝統的な生活様式などではなく、その解体の過程である」と書いたからでもある。ポストコロニアル批評に立てば、その解体の過程から生じる、モロッコのイスティクラール党(独立党)の動きから植民地下の社会や文化を The Spider’s House から読みとることは可能である。
The Spider’s House の読みを以上のことだけに留めておくことはできない。主人公のムスリムAmarに注目するのである。Amarはメディナに住むが、新市街をいったん彷徨するや、メディナに戻ろうとしない。フランス宗主国の新市街に留まるAmarは、メディナに帰還しないムスリムである。Amarの新市街への同化により、フランスがもたらす「近代」を受容しているかのようである。Amarは、新市街において、アメリカ人Stenhamと偶然に出会い、彼を味方につける。アメリカという西洋を保持するAmarは、フランスの「近代」と遭遇しつつ、ムスリムの父親から継承するバラカ(聖なる力)を持つ聖者としての存在から距離を置く。
こう考えれば、Amarの「近代」化を、さらには、イスラームの「近代」化を The Spider’s House から読むことになる。ここで問題が生じる。なぜ、AmarはStenhamと偶然に出会うのか。メディナを脱出するAmarであるが、メディナには彼を抑圧する何かが隠れているのか。AmarのStenhamとの偶然の出会いが関係するとすれば、モロッコ独立の動きに見られる「近代」化という覆いに隠れる登場人物にまつわる具体的な描写に注目しなくてはいけないだろう。
登場人物に関する描写を軸に、イスラームの近代化に隠れる要素を顕在化することになる。AmarをBowlesとホモセクシュアルな関係で、モロッコに住むAhmed Yacoubiと捉え、アメリカ人StenhamをBowles本人と考えるのである。そのことで、近代化のモロッコにおけるBowlesのセクシュアリティという実態に迫るのである。本発表は、登場人物にまつわる描写の欠如やそこから見える「人間関係の希薄さ」などを、フランス権力という暴力と「欲望」との関係で読み解き、The Spider’s House を、セクシュアリティの視点から見直す試みである。