1. 全国大会
  2. 第45回 全国大会
  3. <第1日> 10月14日(土)
  4. 第9室(55年館7階 573教室)
  5. 3.約束された「アメリカ」の脱臼—Leviathan における「落下」

3.約束された「アメリカ」の脱臼—Leviathan における「落下」

内田 有紀 大阪外国語大学(院)


Paul Austerの第7作 Leviathan (1992)は、Benjamin Sachsが作家からテロリストへと転身する過程を、友人Peter Aaronが記憶をたどって書き綴る物語である。Aaronは、Sachsがテロリストへ転向することになったきっかけとして自由の女神像誕生100周年記念のパーティーで起こったSachsの落下事故を挙げている。「落下」のモチーフはAusterの作品に頻出するが、先行研究においては必ずしも十分に議論が尽くされていない。だが、「オースター・ワールド」の商標とも言うべき「偶然性」〈chance〉の語源が、「落下」を意味するラテン語〈cadere〉であることを踏まえると、「落下」のモチーフは、強烈なオブセッションとしてAusterの創造力の中核に取り憑いていることがわかる。本発表では、Leviathan の基軸をなすSachsの落下事件の場面解釈を通じて、Auster文学における「落下」のモチーフの意義を考察するとともに、9.11をも視野に入れ、アメリカ的創造力の文脈においてその定位を試みたい。

落下事件直前にMariaに性的に魅了されたSachsは、パーティー会場の非常階段の手すりに飛び乗り、故意に危うい姿勢をとることによって、彼女が自分を抱擁するよう仕向ける。彼は思惑通り彼女の抱擁を獲得するが、これはMariaがSachsのシミュレーション・モデルを結果的に模倣するというかたちをとる。このように現実を予言的に意味づけ、それを現実において発動させ、その内に自らをズラして囲い込むSachsは、モノに名前を与えることによって生命を与えるアダムを想起させる。アダム同様、Sachsはシミュレーションを現実に先行させ、予め方向付けを行う。

のみならずSachsの身体的な落下は、彼の発明した現実の攪乱を隠喩として示唆している。彼の「落下」には、失楽園のエピソードだけでなく、バベルの塔のエピソードとの関連も認められるが、Derridaによると、塔の混乱を名指す”Babel”という語は、父を意味する”Ba”と神を意味する”Bel”から成り立っている。つまり神あるいは父は、絶対存在を主張するまさにその名において、絶対存在の不可能性を既に宣告されている。これをSachsの「落下」に当てはめると、彼の発明品としての「アメリカ」は、常に/既に、デリダ的「脱臼」を経験する可能性をその内側に抱え込んでいると言える。Babelの塔の建築と崩壊が対をなすように、無垢な現実を発明する過程とその「脱臼」としての堕落もまた対をなしているのである。

後にSachsは、テロリスト「自由の怪人」として、自由の女神像のレプリカを爆破して回るが、この女神像は言うまでもなく「約束された」無垢なアメリカの実現を可視化したものに他ならない。だとすれば、「自由の怪人」は、アメリカのシミュレーション・モデルそれ自体に対して爆破を試みたと言えるのではないか。だが、彼のテロ行為は、その攻撃対象が複製可能なレプリカであるために、永遠に完遂されることがない。それどころか、その不毛なテロ行為は、アメリカの消費社会に回収され、資本主義を活性化するアイテムへといつしかコード変換されてしまう。逆説的に考えると、来たるべき純粋な現前としての「アメリカ」についての約束が認識上の転覆を経験するにもかかわらず、合衆国は、その「落下」経験をも新たな現実発明の材料にして、未来を志向し続ける。Sachsの身体的落下に予め先取りされたかのように、「アメリカ」の「落下」は、衝突の瞬間を永久に繰り延べられているのである。本発表では、このように地表に限りなく近づきながらも、未だ衝突を免れている「落下」という動態的視座より、9.11へと至る「アメリカ」を逆照射してみたい。