下條 恵子 福岡女子大学(非常勤)
20世紀は映像の世紀といわれ、フランス人思想家Guy Debordも「スペクタクルと実際の社会的活動とを抽象的に対立させることは出来ない。現実はスペクタクルのなかに生起し、スペクタクルは現実である」と述べながら劇的なイメージの複合体が現実世界を形成していることを指摘している。Don DeLillo(1936- )の MaoⅡ (1991)とPaul Auster(1947- )の Leviathan (1992)は、あの9/11が作家たちに突きつけた問題、つまりテロリズムという暴力的スペクタクルに対峙する文学の可能性もしくは限界というテーマを予見的に扱った作品であるといえよう。
DeLilloの MaoⅡは映像の支配する社会を舞台とした作品といえる。中心的人物であるBill Grayは、隠遁作家として自作の仕上げに取り組んでいたが、写真家Britaの被写体を務めたことをきっかけに執筆から離れてしまう。彼はテロリズムに抵抗する文学運動のイコンとして人質解放劇に加担するものの、計画の途中で命を落とすのである。DeLilloに捧げられたAusterの Leviathan は、プロットや人物設定などにおいて基本的に MaoⅡ を模倣している。2作品とも作家に向けられたカメラが銃や武器のイメージで描かれ、映像化社会に組み込まれることによって生じる作家の死を問題とする。
しかし、この2作品はスペクタクルの社会における文学の可能性に関しては大きな違いを見せる。MaoⅡ では、物語自体がイメージのコラージュ的描写、メディアの宣伝文句などの蓄積によって形成されており、作品自体がスペクタクルによって形成された現実を体現している。またメディア世代の申し子KarenがGrayの文学世界と映像化社会を自由に行き来するメシア的存在として登場し、文学と現代社会の対話の可能性を示唆してもいる。一方 Leviathan においては、物語はSachsの友人であり作家でもあるAaronの筆により進行する。Aaronは家族・友人といった小さなコミュニティと文筆活動を自己の世界の中心に置いており、その世界は文学への言及を多用しながら肯定的に描かれてはいるものの、スペクタクルの上に成立した現代社会とのつながりはほぼ断絶した状態にある。
本発表では、MaoⅡにおける文学と映像化社会の対話、Leviathan におけるその欠如を検証し、テロリズムというスペクタクルに対する作家たち、GrayとAaronの向き合い方を明らかにしたい。