1. 全国大会
  2. 第46回 全国大会
  3. <第2日> 10月14日(日)
  4. シンポジアムⅡ(関西支部発題)(6号館2階622教室)

シンポジアムⅡ(関西支部発題)(6号館2階622教室)

共振する / 交錯するメディアとアメリカ文学

司会
相愛大学 山下  昇
メディアとアメリカ文学——イントロダクション
講師
大阪大学 森岡 裕一
禁酒小説のメディア戦略
同志社大学 田口 哲也
メディアを奪い取った詩人——ケネス・レクスロス的アナーキズムの伝統
神戸大学 山本 秀行
マイノリティのsolo performanceにおけるメディアと身体
大阪外国語大学 渡辺 克昭
メディアの亡霊 — 9.11と「灰」のエクリチュール


相愛大学 山下  昇


世界の発展においてメディアの果たしてきた役割は想像以上に大きい。メディアの発展の歴史においてアメリカが果たしてきた貢献は特筆に値するが、それはアメリカという巨大な空間を克服することがアメリカ社会の発展において至上命題であったことと無関係ではない。空間を越えてコミュニケーションを成立させるためのさまざまなテクノロジーの開発がアメリカにおいて19世紀以来急速に進み、多様なメディアが流通することとなった。そのようにして作り出されてきたメディアがアメリカ人の生活や考え、行動様式と感性にどのような影響を与えたのか、それをアメリカ文学がどのように表現してきたのかを見るのが、本シンポジウムの目的の一つである。また、メディアの発展は文学のあり方自体に影響を与えたと思われる。アメリカ文学がメディアの発展に伴ってどのように変容したのかをも併せて考えることとしたい。

一連の作業を通じて、メディアとアメリカ文学がいかに共振しているか、交錯しているか、そのような現象を誘発する根本には何があるのか、ということに新たな知見が得られれば本シンポジウムの所期の目的はひとまず達成されるだろう。


大阪大学 森岡 裕一


与えられた課題は、「禁酒小説等を中心にメディアとアメリカ文学について語る」だが、禁酒物語を材料にメディアとアメリカ文学の関わりを語るというより、メディアとアメリカ文学の関わりをダシにして、禁酒物語(temperance narrative)を紹介することが中心となろう。禁酒小説のレトリックの特徴、そのメディア戦略などを考察したい。時間が許せば、たとえば、『アンクル・トムの小屋』など同時代の感傷小説、家庭小説との関わりについてもふれたいと思っている。

両者はメッセージ性において明瞭であるとともに、その感傷的レトリックをも共有している。だが、前者がもっぱら男性の書いたものであり、後者の担い手は女性である。両者のイデオロギー面での相違なども考えてみたい。


同志社大学 田口 哲也


文学史の中でケネス・レクスロスはビートやサンフランシスコ・ルネサンスに関連して言及されることが多いが、彼ほど詩と詩人を民衆に近づけようと努力した文学者はいなかった。ジャズ・ミュージシャンとの競演、高められた話しことばとしての日常語による詩作の実験などなどの文学上の革命的な実践に加えて、レクスロスはラジオ番組へのレギュラー出演者、新聞の常連コラムニストでもあった。消費されるものとしての、商業資本による文学の大衆化に対するオルタナティヴな文学の普及を彼は目指していたともいえる。今回のシンポでは、このようなレクスロスのメディアに対する自律した精神の伝統の本質を探り、彼の精神を受継ぐネット時代のアメリカ現代詩人の現在についても言及しつつ、アメリカにおけるメディアと文学の関係について考えてみたい。


神戸大学 山本 秀行


90年代以降の多文化主義時代のアメリカにおいて、マイノリティのアーティストによるsolo performanceが注目を集めるようになってきた。マイノリティのsolo performanceは、商業ベースに乗りにくく、低予算で製作する必要性があることから、映像・音響機器などマルチメディアの使用により舞台上唯一の演技者(=アーティスト)の機能を補強する。そして、その多くが、auto-performanceと呼ばれる自伝的なsolo performanceであり、アメリカ主流社会において周縁化されたマイノリティとしての自身(あるいは家族・民族)の体験を元に、自らの生身の身体を舞台上に曝け出し、一つの表現メディアとして機能させている。

本発表では、Secrets of The Samurai Centerfielder (1989)などの作品で知られる気鋭のアジア系パフォーマンス・アーティストDan Kwongのマルチメディアを使用したsolo performanceを中心に、マイノリティのsolo performanceにおけるメディアと身体のコラボレーションの可能性と意味について考察する。また、時間の許す限り、その他のマイノリティのsolo performanceとも比較検討することで、マイノリティに共通の演劇的ストラテジーを探るとともに、Dan Kwongの独自性を明らかにしたい。


大阪外国語大学 渡辺 克昭


電子メディアのみならず、空間、速度、広告、消費、兵器をも含めた広義のメディアが「アメリカ」と親和性を孕んでいるとすれば、それは、メディアというものが常に現前を先取りしてきたという意味において、すぐれて未来指向的であり、未来への加速を助長してきたからに他ならない。建国以来、「を忘れよ」と言わんばかりに、エデン的な未来の現前というオブセッションに囚われ続けた合衆国は、多様なメディアと共振しつつ、時空の圧縮を通じてパフォーマティヴに未来への先取権を行使してきた。この文脈において、四半世紀に渡ってニューヨークのスカイラインを支配してきたWTCを再考すると、ツインタワーが、それ自体の反復性のうちに「熾烈な未来」をシミュラークルとして表象していたことがわかる。だとすれば、圧縮された時空の臨界点を示すかのように、巨大な空間・速度メディアの衝突の反復によって引き起された9.11は、アメリカ的未来の内破として捉えることができよう。

このように「崩れ落ちた未来」を可視化した9.11を参照点として、アメリカとメディアとの共犯関係を逆照射するうえで、Don DeLilloほど相応しい作家もないだろう。今年5月に上梓された彼の新作 Falling Man (2007)は、9.11で灰燼に帰した「タワー」から亡霊のごとく蘇った主人公Keithと彼の別居中の妻Lianneをめぐる物語である。静謐を保ちながらもどこか緊張を孕んだ生還者の日常に焦点を絞り、トラウマティックなポスト9.11的世界を精緻に描出したこの作品の表題は、Richard Drewの衝撃的な写真“The Falling Man”を下敷きにしている。WTCから死のダイビングを試みる一人の男をカメラによって宙吊りにしたこのスキャンダラスな写真は、一度はNew York Times に掲載されたものの、やがてはメディアから放逐される。

本発表では、この写真をめぐるTom Junodによる Esquire 誌の記事、及びドキュメンタリー映画“9 / 11: The Falling Man”も視野に入れつつ、死のダイビングをキッチュなスペクタクルとしてゲリラ的に反復するパフォーマンス・アーティストFalling Manにまず照準を合わせ、かの「宙ぶらりんの男」をDeLillo文学の文脈において定位したい。そのうえで、本テクストが、アメリカ的未来を集約した「タワー」という空間メディアに取り憑く亡霊性において、DeLilloのプレ9.11テクストCosmopolis (2003)といかなる関係にあるかを論じてみたい。これらの作業を通じて、Mark C. Taylorの言う、非存在でも存在でもない表象不能の“nots”が、Falling Man という小説メディアにおいて、いかに表象されているかが明らかになれば幸いである。

つまるところ、9.11により露呈した“nots”の空隙を埋める作家の試みは、 “dot theory”によっては現前し得ないメディアの亡霊と向き合おうとする身振りに他ならない。メディアにノイズとして憑依する亡霊的瞬間を通して “nots”を捕捉しようとするDeLilloの試みは、Derridaが考察した「灰」のエクリチュールにも通底するのではないか。