大阪外国語大学 渡辺 克昭
電子メディアのみならず、空間、速度、広告、消費、兵器をも含めた広義のメディアが「アメリカ」と親和性を孕んでいるとすれば、それは、メディアというものが常に現前を先取りしてきたという意味において、すぐれて未来指向的であり、未来への加速を助長してきたからに他ならない。建国以来、「を忘れよ」と言わんばかりに、エデン的な未来の現前というオブセッションに囚われ続けた合衆国は、多様なメディアと共振しつつ、時空の圧縮を通じてパフォーマティヴに未来への先取権を行使してきた。この文脈において、四半世紀に渡ってニューヨークのスカイラインを支配してきたWTCを再考すると、ツインタワーが、それ自体の反復性のうちに「熾烈な未来」をシミュラークルとして表象していたことがわかる。だとすれば、圧縮された時空の臨界点を示すかのように、巨大な空間・速度メディアの衝突の反復によって引き起された9.11は、アメリカ的未来の内破として捉えることができよう。
このように「崩れ落ちた未来」を可視化した9.11を参照点として、アメリカとメディアとの共犯関係を逆照射するうえで、Don DeLilloほど相応しい作家もないだろう。今年5月に上梓された彼の新作 Falling Man (2007)は、9.11で灰燼に帰した「タワー」から亡霊のごとく蘇った主人公Keithと彼の別居中の妻Lianneをめぐる物語である。静謐を保ちながらもどこか緊張を孕んだ生還者の日常に焦点を絞り、トラウマティックなポスト9.11的世界を精緻に描出したこの作品の表題は、Richard Drewの衝撃的な写真“The Falling Man”を下敷きにしている。WTCから死のダイビングを試みる一人の男をカメラによって宙吊りにしたこのスキャンダラスな写真は、一度はNew York Times に掲載されたものの、やがてはメディアから放逐される。
本発表では、この写真をめぐるTom Junodによる Esquire 誌の記事、及びドキュメンタリー映画“9 / 11: The Falling Man”も視野に入れつつ、死のダイビングをキッチュなスペクタクルとしてゲリラ的に反復するパフォーマンス・アーティストFalling Manにまず照準を合わせ、かの「宙ぶらりんの男」をDeLillo文学の文脈において定位したい。そのうえで、本テクストが、アメリカ的未来を集約した「タワー」という空間メディアに取り憑く亡霊性において、DeLilloのプレ9.11テクストCosmopolis (2003)といかなる関係にあるかを論じてみたい。これらの作業を通じて、Mark C. Taylorの言う、非存在でも存在でもない表象不能の“nots”が、Falling Man という小説メディアにおいて、いかに表象されているかが明らかになれば幸いである。
つまるところ、9.11により露呈した“nots”の空隙を埋める作家の試みは、 “dot theory”によっては現前し得ないメディアの亡霊と向き合おうとする身振りに他ならない。メディアにノイズとして憑依する亡霊的瞬間を通して “nots”を捕捉しようとするDeLilloの試みは、Derridaが考察した「灰」のエクリチュールにも通底するのではないか。