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司会 | 内容 |
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横田 和憲 |
1.The House of the Seven Gables における結婚制度と財産 ——ユートピア思想のなかのフリー・ラヴ 稲垣 伸一 : 実践女子大学 |
2.Authorityの書き換え——教育媒体としての A Wonder Book for Girls and Boys 小久保潤子 : 愛知淑徳大学 |
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星野 勝利 |
3.ひとりぼっちの広場で——アメリカ住宅建築を通じて見る“The Piazza”と政治言説 杉本 裕代 : 筑波大学(院) |
4.Melville最晩年の境地を探る——Billy Buddと詩 大島由起子 : 福岡大学 |
稲垣 伸一 実践女子大学
Nathaniel HawthorneのThe House of the Seven Gables (1851,以下HSGと略記)は,主要登場人物が新たな共同生活を始めるところで終わる。登場人物たちの幸福を予感させるこの結末が訪れることに関して唐突感は否めず,このことによりHSG はThe Scarlet Letter (1850)やThe Blithedale Romance (1852)とはかなり違った印象を与える作品になっている。その幸福な結末をもたらすものはPhoebeとHolgraveの結婚であり,Judge Pynchonの突然死により相続される遺産である。つまりHSGにおける幸福な結末は結婚と財産の相続によってもたらされることになる。
この結婚と財産という問題は,1840,50年代のアメリカにおいてフリー・ラヴ思想のなかで論議され,フリー・ラヴはしばしばユートピア思想と結びつく。例えば,Hawthorneが1841年に半年ほど参加したBrook Farmは,1844年フランスのユートピア思想家Charles Fourierの思想を採用して,コミュニティーの方向転換を図る。フーリエ主義はフリー・ラヴ思想を内包し,また共同資本により運営されるコミュニティー内で私有財産を認めるかどうかの問題もアメリカのフーリエ主義者にとっては大きな問題だった。フリー・ラヴと関連して1850年代には結婚制度に関する論争がHenry James, Sr., Horace Greeley, Stephen Pearl Andrewsの間で起こった。三人のなかで特に既存の結婚制度に異議を唱えたAndrewsは1870年代まで活躍したフリー・ラヴ論者にしてユートピア的コミュニティーにも深く関わった人物である。一方,1848年Seneca Fallsで開かれた世界初といわれる女性権利大会で,参加者の関心は女性参政権よりもむしろ女性の財産権の問題にあったという指摘もある。この大会で中心的役割を果たしたElizabeth Cady StantonはBrook Farmに滞在した経験を持ち,後に女性の財産権と共に結婚制度に関する問題が女性参政権獲得のための中心的問題であると主張する。そして他の女性運動家たちはStantonの主張がフリー・ラヴ思想を推奨するものと考えられることを恐れた。
HSGにおいてHolgraveはフーリエ主義のコミュニティーに滞在した経験を持ち,急進的社会改革思想家たちと交際するいわばコミュニタリアン・ネットワーク内に身を置く人物と設定されている。したがって,彼の革新的思想からフリー・ラヴを連想することは,19世紀半ばに流行したユートピア思想とその実践という文脈で考える限りそう無理なこととは思えない。本発表では,急進的思想を持つHolgraveがPhoebeと結ばれ既存の中産階級的結婚制度の中に収まり,かつ相続した遺産により登場人物たちが幸福な共同生活を始めるという結末を持つこの作品について,1840,50年代盛んに論議されたフリー・ラヴと結婚制度・財産の問題の中でどのような解釈が可能であるか考察していきたい。
小久保潤子 愛知淑徳大学
1852年に出版されたNathaniel HawthorneのA Wonder Book for Girls and Boysはギリシア神話を子供にわかりやすく語り直した挿話を一冊にまとめたものである。児童文学であるため、それまでに書かれた短編、長編に比べ、一見シンプルな内容のこの作品には、そのシンプルさゆえによりわかりやすい形で書き手の思想や書かれた時代の諸言説が反映されており、モラルを教える/言説を刷り込む媒体としてのテクスト=authority/典拠を理解するための手がかりとなるはずだ。
序文には「(神話は)不滅であればこそ、いつ、いかなる時代が、それらの神話にその時代固有の形式と感情の衣を着せ、またその時代固有の道徳を吹き込んでも、一向差し支えない」と書かれている。この考え方に基づいて語り直された挿話には、それぞれギリシア神話をオリジナルとしながらいくつかの点で重要なアレンジが施されている。「空想の赴くままに時に改変を加え」られたのはどの点か、またどのように変更されているのだろうか? この点を比較分析することは、アンテベラム期の文化的状況、および当時台頭してきた中産階級の特色や言説/モラルについて考える上で重要な手がかりを与えてくれる。
たとえば“The Gorgon’s Head”では艱難辛苦に耐えて目的を達成するというアメリカ独立期以来の成功神話への強迫観念を透かし見ることが出来る。また“The Miraculous Pitcher”には正直に働くものが報われるというピューリタン的労働観が現れている。
これらの諸言説を効果的に子どもに教え込む媒体として作動するのが語りであり、期せずしてテクストの戦略となっているのではなかろうか。A Wonder Bookは入れ子構造の形をとっており、物語集全体の語り手(視点的人物)とは別に、登場人物の一人/Eustace Brightが子ども達にギリシア神話の再話を創作し、語って聞かせる語り手として設定されている。特に、語り手/Eustace Brightと聞き手/子ども達の間の双方向的なやりとりが展開される「イントロダクション部分」と「批評部分」がそれぞれの挿話につけられている点に注目すべきである。
語りの戦略がモラルの教育とどう関わるかを考える際、両者をつなぐキーワードとしてauthorityの問題が浮上する。序文の中で2回使われる大文字の“Author”という語からは、創造者たる作家としての強い自意識が窺われる。同時に、語り手から書き手に移行するところに、モラルを刷り込むテクストを教育媒体として定着させ、authorityを目指す語り手の野心が現れていると考えられる。〈聞き手(読者)の要請によって語り手(書き手)が物語をつむぎ出す物語〉を、A Wonder Book全体を統括する語り手が進行させながらテクスト化していく過程において、authorityの位置づけがどう変遷していくかについても考察したい。
杉本 裕代 筑波大学(院)
Herman Melville のPiazza Tales (1856) は、彼の代表的な短編を収めた本として有名だが、 “Benito Cereno”や “Bartleby”、“The Bell-Tower”等が、いわば“シングル・カット”されて盛んに論じられてきたのとは対照的に、巻頭に掲げられ、そのアルバムタイトルとも連動している作品 “The Piazza”が中心的に論じられることは意外に少ない。
本来piazzaとはイタリア語で「広場」を意味し、アメリカでは住宅に設置されるベランダ、ポーチを意味することは良く知られたことだが、そもそもこうした意味のギャップはどのようにして生まれたのだろうか?本発表では、この差異を、イタリア建築文化のアメリカにおける読み替えの契機として捉え、人々が集い語る政治的・文化的空間piazzaが、海を渡り、建築においては古典主義復興期にあるアメリカの住宅に設置された小さなポーチとなってどのように機能していたのかを考察する。それによって、この作品に登場する政治制度をめぐる言説に分析を加えながら、人と人が集うこと、あるいは他者と出会うことがMelvilleにとってどのような意味を持っていたのかを検討したい。
アメリカのpiazzaを検討するためには、イギリスで受容されたpiazza形式と比較してみると分かり易いだろう。17世紀に再開発されたコヴェント・ガーデン・ピアッツァは、市場として形成されたものの、その直線的な様式自体は、市民の支持をあまり得られず、piazzaという建築様式は衰退し、かわりにスクウェアーと呼ばれる空間がロンドン市内に登場するようになる。一方アメリカでは、piazzaは憩いの場所であると同時に、来客を迎える機能も併せ持ち、私/公的領域の両方が混在する場所として、アメリカ住宅建築の中に定着していく。 “The Piazza”の本文中において、主人公が “A piazza must be had.”と語り、わざわざ自分の家にpiazzaを増築することから考えても、piazzaという空間が主人公にとって、そしてこの短編集にとって、作者の立場を指し示す文化的指標となっていることは確かだろう。
Melvilleと家庭文化を論じる時には、例えばディコンストラクション批評がPublic/Privateの二項対立から、外部の世界と家庭とを区別する力がテクストに現れていると論じたように、専ら外部の世界、つまり大海原や密林あるいは資本主義社会などが引き合いに出され、その批評の主眼となってきた。しかし、冒険から帰還し、生涯のほとんどを勤め人として生活したMelvilleが、家庭風景を単に排除の対象としてしか考えなかったと片付けてよいのだろうか?作家の想像力は、常に遠く離れた不思議な世界だけを見つめていたのだろうか。主人公はpiazzaを飛び出して、摩訶不思議な景色の中へと分け入ってfairy-landを探し出すも、再びpiazzaへの帰還を選択して、“I stick to the piazza. It is my box-royal”と語る。住宅建築と空間解釈の問題からこの作品を分析することによって、新たなテクスト解釈の可能性を探り、Melvilleが当時の社会をいかに観察し、生きていたかを論じてみたい。
大島由起子 福岡大学
本発表では、Billy Buddを同時期の詩作品(厳密にはBilly Buddを含め数編は散文との混交)との関連で読む。
最晩年のHerman Melville(1819-91)の創作欲には瞠目すべきものがあった。彼は表現者として挫けず、運も彼を見捨てなかった。彼はThe Confidence-Manで挫折して長編小説の筆を折ってからも、命尽きるまで寸暇を惜しむように読書と執筆に勤しんだ。そうして私家出版されたJohn Marr(1888)やTimoleon(1891)に収められた詩、および遺稿として残された詩作品は、Melville には珍しく、出版社からの規制を意識しなくてすむものであったはずである。
こうした最晩年の作品については、昨今、徐々に研究対象とされるようになった。とはいえ、依然、高邁な詩や美学関連の研究が主であるといえよう。いきおい、異教的な大らかさ、エロスは等閑視されてきた。しかし、作者は南海を舞台とした初期の作品のみならず晩年の幾つかの作品でも、いわばプリコロニアルを忍び、老いてなお、西洋近代に対する反逆精神を保っていた。
Melvilleについて決定版ともいえる伝記を書いた批評家Hershel Parkerは、Billy Buddを晩年の詩と併せ読む必要性を説いたが、いまだ、それに応える研究は出ていない。Billy Buddはなるほどメルヴィル・リヴァイバルの契機ともなった傑作とはいえ、この作品を突然変異とでもとらえない限り、Parkerの要請は尊重すべきであろう。
Billy Buddにはいくつも謎が残っている。例えば、処刑時の空の美しい描写により、語り手がBilly Buddにキリスト昇天のイメージを与えたし、仲間の水夫たちはBillyの無実を信じ、Billyが処刑された桁木を十字架とみなして、その切れ端を各々が大切に持ち、流行り歌ではBillyが従軍牧師に感謝する詩行をつけた。しかし、当のBillyはといえば、処刑前夜に牧師に諭されても改宗せずに異教徒として死んでいったのである。よって、異人としか言いようのないBillyをそう簡単にキリスト教に回収してよいものかという疑問が残る。
発表ではその答えを探るべく、 “John Marr”、“The Archipelago”、“The Enviable Isles”、“To Ned”、“Syra”、“Herba Santa”、“Rip Van Winkle’s Lilac”といった、注目されることが少なかった作品にMelville最晩年の境地を探る。それらを念頭にBilly Budd を読み直したい。