1. 全国大会
  2. 第53回 全国大会
  3. <第2日> 10月5日(日)
  4. シンポジアムⅡ (7号館3階D30番教室)

シンポジアムⅡ (7号館3階D30番教室)

開始時刻 午後1時30分〜4時30分

アメリカ文学と映画(中・四国支部発題)

司会・ 講師
広島大学 的場 いづみ
Lolitaとそのアダプテーション
講師
東京工業大学 上西 哲雄
アメリカ映画を物語る
講師
広島大学 大地 真介

William Faulknerと現代映画作家
—Quentin Tarantino、Alejandro González Iñárritu、Guillermo Arriaga

講師
信州大学 杉野 健太郎
F. Scott Fitzgrald の The Great Gatsbyの Baz Luhrmann監督によるアダプテーションについて



19世紀末のシネマトグラフの誕生後、米国での映画はThe Great Train Robbery (1903)、多様なショットを組み合わせたThe Birth of a Nation(1915)、初のトーキー映画と言われるThe Jazz Singer (1927) を経て、1930、40年代にハリウッド黄金期を迎える。新しいメディアである映画は文学をはじめとして従来の様々な芸術の影響を受けて進展した。本シンポジアムではアメリカ文学と映画との関わりをいくつかの視点から考えたい。

まず、文学は多くの物語を映画に提供してきた。文学とその映画アダプテーションとの関係は、文学と映画を論じる際にもっとも頻繁に用いられる主題かもしれない。一つの文学作品から複数の映画アダプテーションが作られることも多く、それぞれの映画製作者たちが一つの文学作品をどのように読み解いたかが示されるだけでなく、文学に触発されてどのような独自の世界を創造したかを見比べることができる。

アメリカ文学との関連では文学作品が映画化されただけでなく、フィッツジェラルド、フォークナーといった作家たちが実際に映画脚本の執筆を担当している。文学からの影響を受けつつも、映画は多重露出やクロスカッティングや多様なショット等の独自の文法を獲得しており、脚本を担当した作家たちは映画と文学という複数のメディアでの表現活動を経て、新たな表現の可能性を模索したと考えられる。表現技法の影響関係はもちろん一方通行ではなく、文学が今もなお映画の技法に影響を与えていることは言うまでもない。

また、1920年代後半以降、アメリカの映画産業では長編映画を効率的に安価に大量生産するシステムが確立した。映画製作の分業化が進むなか、脚本を担当する小説家たちは厳しい制約のもとで創造性を発揮することを求められた。一方で、こうしたアメリカ映画産業の内情を、文学者たちは読者をひきつける小説の題材として取り入れた。

文学と映画との関わりは多様であるが、4名の発題者がその多様性の一端を話題提供し、文学と映画との関わりについて考えを深めていければと思う。

広島大学 的場 いづみ

 

Vladimir Nabokovと映画との関係については、Stanley Kubrick監督によるLolitaの映画脚本のクレジットがNabokov自身であることが有名であるが、Nabokovの映画への関心は少なくとも1920年代まで遡ることができる。Nabokovは妻と頻繁に映画を観に行っていただけでなく、エキストラとして映画に出演したことも知られている。映画への関心は小説にも反映され、処女作Машенька(Mary)にも映画への言及は散見される。また、初期作品のなかではКамера Обскура(Laughter in the Dark)で映画は題材としても重要な位置を占める。

Nabokovと映画についての研究では、The Annotated Lolitaで有名なAlfred Appel Jr.がNabokov’s Dark CinemaにおいてNabokovとフィルム・ノワールとの関連を論じている。また、Babara WyllieはNabokovが実際にその映画を観たかどうかという問題をいったん棚上げた上で、Nabokovの初期から後期にいたる小説に見られる映画的な工夫を指摘する。とは言え、Nabokovと映画との関連の言及の多くがLolitaに集まっているのは間違いない。

Lolitaの映画化にあたって書かれたNabokovの脚本草稿はKubrickからの修正提案を受けて書き直される。しかし、実際に1962年に上映されたKubrickの映画はクレジットこそNabokov脚本となっているものの、実際にはNabokovの脚本とは大きく異なるものだった。その後、Nabokovは脚本の草稿に再度手を入れて短くし、1974年に脚本は出版される。つまりKubrick監督映画とNabokovによる脚本はまったく別のアダプテーションであり、Adrian Lyne監督による映画 Lolita (1997)を加えると小説 Lolitaの映画関連のアダプテーションは三つ存在する。

長年映画に関心を寄せてきたNabokovが映画脚本を書く場合、自身が映画的表現であると考えるものを脚本に盛り込むのだろうが、実際の映画監督であるKubrickはNabokovの考える映画的表現をあまり採用しなかった。本発表ではLolitaの小説と三つのアダプテーションを比較し、Nabokovが映画的表現と考えたものと実際の映画表現のズレを考えたい。


東京工業大学 上西 哲雄

 

本発題では、アメリカの映画産業、象徴的にはハリウッドを、アメリカ文学がどのように物語にしてきたかについて検討する。

アメリカにおいては、20世紀への世紀転換期に開発され商業化された映画を巡って、早くも1910年代には映画産業を題材とした小説が登場した。その後映画の製作現場だけではなくてハリウッドという街を舞台にしたものも含めると、映画はアメリカ社会にあって特別な存在として、現在に至るまで扱われ続けてきた。ハリウッドを舞台にした代表的な小説を思いつくままに挙げてみただけでも、Nathanael West, The Day of the Locust (1939)、F. Scott Fitzgerald, The Last Tycoon (1941)、Norman Mailer, The Deer Park (1955)、Gore Vidal, Myra Breckinridge (1968)、Bret Easton Ellis, Less Than Zero (1985) 、James Ellroy, L.A. Confidential (1990)などと枚挙にいとまがない。

本発題では時代を絞って、ハリウッド小説が登場する1910年代から、アメリカ映画産業がひとつの頂点に達する1940年前後までの期間に限って検討する。1920年代後半からのスタジオ・システムの構築でようやく産業としてのまとまりが出来始めたばかりのハリウッドは、まだアメリカ社会にとっては目新しく、それを題材にする作家はそれを、新たに登場したものとして理解し自らのものにしようと格闘していることが作品から生き生きと伝わってくる。ハリウッドを正面から物語にしようとする時代であったと言える。

上に掲げた作品群の中でこのような時代区分に該当する The Day of the Locustと The Last Tycoonのプロットは大まかに言うと、ハリウッドの映画スタジオに生きる人々が、ハリウッドに夢を抱いていたがそれぞれの境遇や事情の中でその夢が破れるというものである。こうしたプロットは、この時代の大衆小説でハリウッドを扱ったものを渉猟しても容易に見つけることができる。さらには、このプロットはアメリカン・ドリームの崩壊というアメリカ文学の定番のテーマに合うことから、アメリカン・ドリームをハリウッド小説の特徴のように扱うことが多い。しかしこの時代のハリウッド小説はすべてアメリカン・ドリームの崩壊に回収できるのか。同時代のハリウッドを扱う大衆小説とこれら二作をひとつにして読み直した時に、共通して立ち上がる映画を語る振る舞いを探ってみる。


広島大学 大地 真介

 

William Faulknerと映画の関係については、主にFaulknerのハリウッドにおける脚本書きの仕事や彼の小説の映画化に関して研究されてきており、Faulknerの小説が映画作家たちに多大な影響を及ぼしていることは意外に知られていない。Orson WellesとHerman J. Mankiewiczは、Faulknerの Absalom, Absalom!を下敷きにして Citizen Kaneの脚本を執筆し、また、Jean-Luc Godardは、 À bout de souffleを筆頭に多くの映画でFaulkner作品にオマージュを捧げている。

日本ウィリアム・フォークナー協会の学会誌やシンポジアムにおいて筆者は、今日世界で最も著名な映画作家の部類に入るQuentin TarantinoとAlejandro González Iñárrituが、Faulknerの小説の技法とテーマを巧みに応用していることを指摘した。その後も、Tarantinoは Kill Bill: Vol. 1 & 2 (2003-04)、 Death Proof (2007)、 Inglourious Basterds (2009)、Django Unchained (2012)を、Iñárrituは Biutiful (2010)を発表し、主要な映画祭等で高い評価を得ている。また、Iñárrituと共同で脚本を書いていたGuillermo Arriagaは、Tommy Lee Jonesが監督したThe Three Burials of Melquiades Estrada (2005)でカンヌ国際映画祭脚本賞に輝き、2008年には監督業にも進出して自作脚本によるThe Burning Plainを発表しており、同作品は、後にアカデミー賞受賞女優となるJennifer Lawrenceにヴェネチア国際映画祭新人俳優賞をもたらした。Faulknerからの影響をIñárrituとともに公言するArriagaは、「私は映画よりも文学の影響を受けており、私にとって特に重要なのはFaulknerだ」とまで言っている。

本発表では、Tarantino、Iñárritu、Arriagaの上記の映画において、Faulknerの小説の何が借用され、何が改変されているか、また、それらの映画とFaulkner作品の共通点と相違点が何を意味するかということを明らかにし、アメリカ文学を代表する作家の一人Faulknerの小説がジャンルも時代も超えて今日世界の映画界に与えている影響について深く考察してみたい。


信州大学 杉野 健太郎

 

文学作品とその映画化作品との関係は、長い間、オリジナルとコピー、あるいは主人と奴隷というような不幸な関係であったと言えるだろう。文学作品の映画化は、所詮は文学作品のコピーとみなされ、忠実度(fidelity、忠実に文学を再生するかどうか)においてのみ価値評価され、せいぜいオリジナルの文学作品ほどはよくはないが、なかなかいいという程度の評価を得るのみであった。文学作品の映画化(のみならず映画全般)は、映画のミディアムとしての特性に顧慮しない文学研究者によって十分な理解がなされないまま、文学の僕としての卑しい地位に追いやられてきたと言えるだろう。

しかし、とりわけアメリカにおける映画研究の進展によって事情は変わってきた。文学作品とその映画化とのハイパーテクスチュアルな関係が注目されるようになり、文学作品の映画化作品は、チープなイミテーションとみなされるのではなく、その創造性を評価されるようになってきた。すなわち、文学作品の映画化がハイポテクストとしての文学作品をどう読み、何を付加し、何を削除し、どのように別のミディアムに置き換えてきたかが注目されるようになったと言えるだろう。実際、シェイクスピアがさまざまな粉本をさまざまな戯曲へと変換してきたように、さしたるものとは言えない文学作品に映画が多くの付加価値を与え変換してきたという歴史も忘却してはならないだろう。

さて、アダプテーションとは、あるミディアムによる物語を別のミディアムによる物語に置き換えることといちおうは定義できるだろう。アダプテーション研究は、文学研究と映画研究の不幸な関係によって、おざなりにされたままの状態で放置されてきた。しかし、文学研究のためにも、また両者の関係の再構築のためにも、忠実度が足りない、原作ほどよくないと無理解に打ち捨てられてきたアメリカ文学作品の映画化を再検討しなければならない時期、両者の幸福な関係を構築すべき時期、が来たのではないだろうか。

本発表では、アダプテーション一般についての視野を保ちながら、アメリカ文学作品の映画化の一例としてF. Scott Fitzgeraldの The Great Gatsbyの Baz Luhrmann監督による2013年公開のアダプテーションについて考察したい。個性的な監督オートゥールと呼べるだろう Luhrmannにとって下敷きとなるハイポテクストは、原作と1974年のJack Clayton監督/Francis Ford Coppola脚本の映画化であろう。2013年版のThe Great Gatsby に関して考察するとともに、オーストラリア人Luhrmannが頼まれ仕事ではなくなぜ自発的に映画化を試みたかについての考究、さらには原作の新たな読みの可能性にも至れればと考えている。