信州大学 杉野 健太郎
文学作品とその映画化作品との関係は、長い間、オリジナルとコピー、あるいは主人と奴隷というような不幸な関係であったと言えるだろう。文学作品の映画化は、所詮は文学作品のコピーとみなされ、忠実度(fidelity、忠実に文学を再生するかどうか)においてのみ価値評価され、せいぜいオリジナルの文学作品ほどはよくはないが、なかなかいいという程度の評価を得るのみであった。文学作品の映画化(のみならず映画全般)は、映画のミディアムとしての特性に顧慮しない文学研究者によって十分な理解がなされないまま、文学の僕としての卑しい地位に追いやられてきたと言えるだろう。
しかし、とりわけアメリカにおける映画研究の進展によって事情は変わってきた。文学作品とその映画化とのハイパーテクスチュアルな関係が注目されるようになり、文学作品の映画化作品は、チープなイミテーションとみなされるのではなく、その創造性を評価されるようになってきた。すなわち、文学作品の映画化がハイポテクストとしての文学作品をどう読み、何を付加し、何を削除し、どのように別のミディアムに置き換えてきたかが注目されるようになったと言えるだろう。実際、シェイクスピアがさまざまな粉本をさまざまな戯曲へと変換してきたように、さしたるものとは言えない文学作品に映画が多くの付加価値を与え変換してきたという歴史も忘却してはならないだろう。
さて、アダプテーションとは、あるミディアムによる物語を別のミディアムによる物語に置き換えることといちおうは定義できるだろう。アダプテーション研究は、文学研究と映画研究の不幸な関係によって、おざなりにされたままの状態で放置されてきた。しかし、文学研究のためにも、また両者の関係の再構築のためにも、忠実度が足りない、原作ほどよくないと無理解に打ち捨てられてきたアメリカ文学作品の映画化を再検討しなければならない時期、両者の幸福な関係を構築すべき時期、が来たのではないだろうか。
本発表では、アダプテーション一般についての視野を保ちながら、アメリカ文学作品の映画化の一例としてF. Scott Fitzgeraldの The Great Gatsbyの Baz Luhrmann監督による2013年公開のアダプテーションについて考察したい。個性的な監督オートゥールと呼べるだろう Luhrmannにとって下敷きとなるハイポテクストは、原作と1974年のJack Clayton監督/Francis Ford Coppola脚本の映画化であろう。2013年版のThe Great Gatsby に関して考察するとともに、オーストラリア人Luhrmannが頼まれ仕事ではなくなぜ自発的に映画化を試みたかについての考究、さらには原作の新たな読みの可能性にも至れればと考えている。