1. 全国大会
  2. 第43回 全国大会
  3. <第1日> 10月16日(土)
  4. 第9室(8号館2階 822教室)

第9室(8号館2階 822教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
堀 真理子

1.夢遊病者とその娘のゆくえ —— Homebody/Kabul における脱植民地幻想の思考

  天野 貴史 : 大阪外国語大学(院)

2.外観・生・セクシュアリティー —— Angels in America におけるスペクタクル

  岡本 太助 : 大阪外国語大学(院)

有泉 学宙

3.Adrienne Kennedyの演劇ミステリーと謎の演劇

  伊藤 ゆかり : 山梨県立女子短期大学

4.女神からサイボーグへ —— 60年代以降アメリカ女性パフォーマンスアーティストによる身体の認識とその表象

  戸谷 陽子 : お茶の水女子大学



天野 貴史 大阪外国語大学(院)


本発表は、Tony KushnerのHomebody/Kabul において、行方の知れぬ失われた母親を求める娘が、いかにして父親の強力な「幻想」を内破するのかを、ホテルの一室という空間に着目し、考察するものである。

カブールに到着したMilton CeilingとPriscilla父娘は、滞在先のホテルでHomebodyの検死報告を医師から受ける。それは、全身の骨を棍棒で砕かれ、頭皮を剥がされ、引きずり回された挙句に四肢をもがれた酷い有様だが、当の遺体は行方不明である。しかしMiltonは “They ate it” と疑う様子がない。つまり、想像を絶する遺体の有り様は、殺人犯ならびに現地人一般の蛮性を露呈するものであり、遺体の不在は食人の供宴の証左である。さらに彼は、復讐心、裏切り、獣性といった一連のイメージ群を現地人のまわりに張り巡らせることで、彼らを回収不可能な他者として成型=排除しつつ、暗黒の蛮地に足を踏み入れた自身を英雄視する。ホテルの一室は、他者の究極の他者性を浮かび上がらせるこうした幻想が絶えず生産されるその中心である。また、断固としてホテルの「内」に留まり、「外」の否定的な幻想を膨張させる彼は、ドラッグに耽溺した末の夢遊病者として演出される。

幻想への同化を要請するMiltonに対抗して、Priscillaは、「内なる他者」としての自己像を構築する。かつて父が封殺した母の言語変異を彼女は引用する。堕胎の告白により、家族体系の基盤たる「親子」の連鎖を否定する一方、彼女は現地の男女と「養子」縁組を結ぶ。なかでも最も実り豊かな実践は、Miltonにドラッグを供給するQuangoとの性交渉である。実のところ、ホテルの内を満たしている幻想を構造的に支えているのは、Priscillaを角とするMiltonとQuangoの、Girard的な「性愛の三角形」であり、Gale Rubinの唱える「女性の交換」である。だが、この男同士の絆は、それが放逐する「他者」たるMahalaを一つの角とする、PriscillaとQuangoの第2の三角形の出現により崩れ去る。性交渉の引き替えに、Mahalaの出国申請書類を受け取ったPriscillaは、もはや男同士の関係を結ぶだけの導管ではなく、Mahalaの存在を背負う責任ある主体となる。一方Quangoは、自らの署名が記載された書類を手渡すことで、Mahala出国をめぐる現地の政治状況に巻き込まれていく。結果、支配力を失ったMiltonの幻想が雲散霧消するさまは、その後の人物配置から明らかである。

このようにHomebody/Kabul の主題は、「内なる他者」としての主体化を志向するPriscillaの運動であり、幻想に溺れた夢遊病者Miltonを限りなく遠景化したうえで「まったき他者」Mahalaを手前に引き寄せる、遠近法の逆転である。


岡本 太助 大阪外国語大学(院)


20世紀アメリカ演劇の最高傑作と評されるTony Kushnerの大作Angels in America: A Gay Fantasia on National Themes は、代表的批評家の一人であるDavid Savranの指摘によれば、様々な「アンビヴァレンス」を孕みつつも、結局は「リベラル多元主義」という政治的立場のもとに構築されたものとみることができる。しかしこの「アンビヴァレンス」は、単純に解消されるべきものなどではなく、むしろそこに生じる緊張関係こそが、作品を駆動する力となっているといえる。黙示録的な荘厳さと卑俗な言説の混在、超越的な救済の希求と人間主義的な社会変革の展望、パーソナルなものとしての病や死とそれを超えたところに夢想される共同体、生と死、過去と現在。そういった対立的な事象や概念が弁証法的に高められてゆき、錯綜する物語の網の目の上に、作品の標榜する「国家的テーマ」が浮かび上がるのである。だがAngels における弁証法は、明確なジンテーゼに至ることはない。主人公Priorによる天国巡りと「さらなる生」の選択というファンタジー的な展開を経て、終幕では、セントラルパークの噴水の前に集った主要登場人物たちが、ペレストロイカが象徴するより良い未来に思いを馳せるが、この結末が唐突な印象を与えることは確かであり、ここに至るまでに描かれてきた対立や緊張関係は、必ずしも解消されたとはいえないのである。

本発表では、Angelsにみられる様々な「アンビヴァレンス」を、≪スペクタクル≫をキーワードに読み解いてみたい。Guy Debordは、「それ固有の観点にもとづいて考察すれば、スペクタクルとは、外観の肯定であり、すなわち社会的な生を単なる外観として肯定することなのである」と述べている。Angelsでは、Priorのもとに降臨する天使の姿に、Debord的スペクタクルを見出すことができる。それは強烈な畏怖を呼び起こす神性の顕現でありながら、スピルバーグ映画のパロディでもあり、演劇的な見世物としてのスペクタクルでもある。ここに「アンビヴァレンス」あるいは決定不可能性が生じるわけだが、Kushnerはそれを解消するのではなく、あえて誇張し増幅させることによって、意味作用の可能性を拡大してゆく。同様の戦略は、さらにセクシュアリティーや生の再定義にも向けられ、外観と内面(真実の自己)の対立という抑圧的言説が戯画化される。つまりは「外観の肯定」としてのスペクタクルに対して、キャンプ・クイア的「外観の肯定」を対置し、逆説的に生と性をスペクタクルの領域から開放しようという試みである。この発表では、スペクタクルとKushnerの戦略の間の≪共犯関係≫を、Angels における高次の「アンビヴァレンス」として考察する。


伊藤 ゆかり 山梨県立女子短期大学


Adrienne Kennedyの戯曲は、第一に強烈な視覚的イメージで我々を引きつける。処女作であり最も有名な作品でもあるFunnyhouse of a Negro が代表的な例であろう。主人公をあらわす男女を含めた複数の登場人物は、抜け落ちる髪や、割れて血だらけとなった頭部といった造形を与えられ、一黒人女性とその両親の人生を具現化する。本当のところ過去になにが起こったのか明確に語られることはないが、主人公が向かい合っている歴史と社会のイメージが観客に迫ってくる。新進劇作家Claraを主人公とするA Movie Star Has to Star in Black and White も、映画を使った視覚イメージが豊かな作品である。Claraは自分の生活や家族について語るのだが、映画の主人公を含めた複数の人物による語りや、彼女の書く戯曲の台詞が挿入されることで、語りは断片化される。Kennedyの初期戯曲は、物語を語ることを拒否しているようだ。

それに対して黒人劇作家Suzanne Alexanderを主人公としたthe Alexander Playsと称せられる一連の作品においては、主人公が、起こったことを初期作品よりもはるかに明確に、時間軸にそって語る。転機となっているのは、Lois More Overbeckが指摘するように、自伝であるPeople Who Led to My Plays とDeadly Triplets であろう。とりわけthe Alexander Plays以前と以後をつなげる作品として後者に注目したい。この作品は、A Theatre Mystery and Journal という副題が与えられ、Kennedyが出会った演劇人を短い文章で活写した、自伝の延長ともいえるジャーナルと、劇作家Suzanne Sandを主人公とした小説が組み合わされている。アイデンティティの混乱や、姉妹との確執といったほかの作品でも繰り返されるモティーフが見られるが、特に興味深いのは、自らの人生における謎を解こうとする劇作家と、彼女を助けようとする俳優を主な登場人物とした通俗的ミステリーの形をとっていることである。

このミステリーという語り方こそが、the Alexander Playsを支える手法といえよう。Suzanne Alexanderの幼い娘の殺害をめぐるOhio State Murders はいうまでもなく、夫の失踪という状況下のSuzanneを描く Dramatic Circle にも謎の人物をめぐるハリウッド映画のようなサスペンスがあり、さらに近年の代表作であるSleep Deprivation Chamber は、法廷ミステリーの変型とみなすことができる。ミステリーの作法どおりに、劇の結末では一定の解決が示されるものの、そのとき我々は解決されていないより大きな謎とともに残される。本発表では、bell hooksが“She shrouds the work in mystery.”と延べ、Kimberly W. Benstonが “a . . . thematically phantasmagoric enigma”と評したKennedyの作品における謎とはなにか検証したい。そして、初期の戯曲において死と暴力を視覚的に表現していたKennedyが、静謐ともいえる語りによる表現へ至った変化をもあわせて分析したい。


戸谷 陽子 お茶の水女子大学


20世紀後半以降のアメリカ舞台芸術の分野において、パフォーマンス・アートというジャンルは1960年代以降、アーティスト個人の生身の身体を媒介として表現される新たなるジャンルとして活発化した。その中で、女性の身体表象を軸にしたパフォーマンスもいくつかの流れをもって確実に実践されてきたが、これには60年代の公民権運動やヴェトナム反戦運動が盛んであった時代を背景に女性解放運動が「第2のフェミニズムの波」として、政治的・文化的な活動に大きく影響したことが、ひとつの大きな思想的背景となっている。60年代はまた、新たなる前衛演劇がいわゆる「肉体の演劇」を中心に台頭し始めた時期でもあった。そしてこれがテクノロジーの進化を背景に新たな局面を迎えたのが80年代であった。C.W.E. Bigsbyは、演劇における文化的地殻の大変動ともいうべき変革は、50年代にノースカロライナ州のブラックマウンテンカレッジで発信されたハプニングやパフォーマンス等の新たなアート運動に起源を発し、60年代に隆盛を極めるアメリカの前衛演劇の始点もここであったことを指摘しているが、パフォーマンス・アートというジャンルそれ自体は、20世紀初頭モダニズムの時代より、50年代のフルクサス運動を経由して継承されてきたともみることができよう。

本発表では、女性自身の身体に対する認識に焦点を絞り、女性によるパフォーマンスを対象に、20世紀後半以降のパフォーマンス・アートという舞台芸術のジャンルにおける女性の身体に対する認識とその表象を考察する。初期のフェミニストパフォーマンスに見られる女性の身体を自らのものとして再獲得することを目指すような身体表象、70年代から80年代にかけて理論・実践ともにフェミニズムが浸透していく中で出現した、ジェンダーの境界線を身体に変更を加えることによって撹乱していくような戦略をもつパフォーマンス等を、フルクサス運動の主力メンバでもあったCarolee ShneemanのInterial Scroll(1975)、パフォーマンス・アートというジャンルを大衆に認知させた功績をもつLaurie AndersonのOh Superman in United States (1979)、自らの身体を検証の対象として見世物化してみせたAnnie Sprinkle、わいせつな身体と名づけられたKaren FinleyやPenny Arcadeらのパフォーマンスを考察対象に、また写真家Cindy Shermanの活動も視野に入れつつ、仮に女神の身体、わいせつな身体およびおぞましい身体、さらにサイボーグの身体と分類して各々の身体表象のあり方を検証し、今日的な文脈の中で理論付けを試みたい。