1. 全国大会
  2. 第44回 全国大会
  3. <第1日> 10月15日(土)
  4. 第3室(2号館1階 15番教室)

第3室(2号館1階 15番教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
森岡 裕一

1.初期Hemingway文学に登場する黒人ボクサーの系譜——モダニズム的言語運用と異人種間性的関係のメタファー

  辻   秀雄 : 慶應義塾大学(院)

2.禁じられた快楽——Hemingway作品とマスターベーション言説

  高野 泰志 : 岩手県立大学

田中 敬子

3.Sanctuary に於けるGothic fictionとdetective fiction の要素——「見る」欲望と視線の優越

  海上 順代 : 秋田国立工業高等専門学校

4.William Faulkner のインディアン物語における異種混淆の近代

  余田 真也 : 和光大学



辻 秀雄 慶應義塾大学(院)


Hemingwayの初期の作中に登場するアフリカン・アメリカンの何人かには、一つの共通点がある。それは、かれらがボクサーであるということだ。代表的な二人として、実在のボクサーがそれとわかるように登場する例、そして、ボクサーとしては登場しないアフリカン・アメリカンのモデルがボクサーとしての前歴を持つことが明らかになった例がある。前者は、“The Light of the World”という短編で作中人物たちの話題の的となるJack Johnson、後者は、The Sun Also Rises に登場するパリの酒場のドラマー。興味深いのは、まず、双方の例がそろって異人種間の性的関係をほのめかしていることだ。さらに、Michael Northが The Dialect of Modernism で論じた白人モダニストによるアフリカン・アメリカンの英語の再表象の一例こそ、The Sun Also Rises の「黒人」ドラマーの英語が体現していることも、見逃せない。

本発表では、白人のモダニズム文学がアフリカン・アメリカンの英語の影響を不可避的に受けていたとするNorthの立場を前提にした上で、Northが問題にするモダニズムの「方言」を The Sun Also Rises に隠蔽された異人種間の性的関係というメタファーとの相同関係から考察し、その後、“The Light of the World”をJack Johnsonというボクサー中心に読み直したい。アフリカン・アメリカン初のチャンピオン・ボクサーであったJack Johnsonは、白人ボクサーによるベルト奪還の熱狂、すなわち“Great White Hope”という焦燥感を巻き起こす。彼はまた、大っぴらに白人女性と関係を持ち、反感を呼んだ。Jack Johnsonは、白人側の人種意識を増長すると同時に人種の境界を侵犯するトリックスターであったといえる。

そもそも、人種の純潔という概念を成り立たせているのは、実は混血の概念である。だからこそ、The Sun Also Rises のテキストの表面から隠蔽された異人種間の性的関係というメタファーは、逆説的にそれを語る言語自体の混血性を示唆していると考えられる。そして、Hemingwayの初期作品に登場するアフリカン・アメリカンのボクサーの系譜は、人種という概念そのものの問い直しを迫るものと評価できるのではないか。こうした見地から、Hemingwayの高校時代の創作、“A Matter of Color”にも触れたい。


高野 泰志 岩手県立大学


20世紀初頭のアメリカは,19世紀的な「お上品な伝統」をいまだに根強く残しながらも,徐々に「性の解放」へと向けて変化しつつあった。特にマスターベーションに関する言説は,この時期に大きく変化することになる。青少年に向けた性教育の中でも「マスターベーションの害悪」はもっとも恐れられていたもののひとつであり,教会や医者たちは若者たちの健康を阻害することになるこの「悪徳」をやめさせようと,マスターベーションの及ぼす「恐ろしい悪影響」を繰り返し主張し,若者たちの恐怖に訴えかけたのである。それは性行為を生殖のためのものと位置づけるキリスト教の立場上,そして功利主義的なアメリカ社会という土壌において,生殖とは何ら関わりのないマスターベーションは宗教的のみならず経済的にも罪悪であると考えられたためである。しかし20世紀初頭には徐々に新しい科学的な言説が現れ始め,こういった旧弊な性教育とそれに対する反動的な考え方が徐々に生まれ始めた。丁度その過渡期にシカゴ郊外の厳格なピューリタン社会で生まれ育ったHemingwayは,必然的に性に関して様々な異なる価値観を吸収することになったはずである。本発表ではHemingwayの性意識を,価値観が複雑にせめぎ合う時代背景の中で改めて捉えなおし,従来の作品解釈に見直しを迫りたい。

まずは当時のマスターベーションに関する言説がHemingway作品の中でどのような役割を果たしているかを考察する。いまだコムストック法の影響が残るなか,Hemingwayの作品にはマスターベーションに直接言及した作品はほとんどない。しかしいくつかの作品でマスターベーションをにおわせる場面は存在しているのである。たとえば初期の短編“Mr. and Mrs. Elliot”では,はっきりとは描かれないものの,おそらく主人公Hubertがマスターベーションをしたらしいことを窺わせる場面がある。Hubertのマスターベーションは,彼が繰り返し主張し実践してきた「性的な純潔さ」と併置したとき,当時の社会的な背景を色濃く反映した重要な意味を帯びていることが分かるのである。

また直接的なマスターベーションの描写だけでなく,当時のマスターベーションに対する社会的価値観が作品の性描写にどのような影響を及ぼしているのかを併せて考察する。Hemingway初期の代表作 The Sun Also Rises は,当時の性風俗を鮮明に写しだすとともにHemingwayの性に対する考え方を強く反映した作品でもある。第一次世界大戦後の不毛で退廃的な時代風潮のなか,「生殖に関わらない性」に対する当時の価値観が,性的不能者を主人公としたこの作品にどのような影を落としているのかを明らかにしたい。

性に対する社会的価値観が解放と反動の狭間を揺れ動くなか,Hemingwayの性意識はどのように変化したのか,あるいはどのような点が変わらずに維持されたのか,改めて検証したい。


海上 順代 秋田国立工業高等専門学校


William Faulkner の Sanctuary (1931) は、Dianne Luce Coxの “A Measure of Innocence: Sanctuary’s Temple Drake” に見られる様に Temple Drake を中心に論じられることが多い。そして Templeの人物像を考える際、作品に見られるセクシャリティーやジェンダーの側面を軽視することは出来ない。この点に関連して Sanctuary は様々な方法で批評されてきたが、本発表ではセクシャリティーとジェンダーの問題を作品に見られる Gothic fiction と detective fiction の要素を検討することで論じていきたい。そしてSanctuary のテキストの中で反復される「見る」という行為の意味を考察したい。

女子大生のレイプ事件と殺人事件が起こり、殺人容疑者の弁護人を軸に物語が展開する。弁護士 Horace Benbow は謎解きをする立場にあり、彼の視点から読者は様々な事件に関係する事実を知ることになる。小説の構造としては、 Popeye の出生等、重要な事実は物語の後半まで読者には明かされない。犯罪と、探偵の役割を与えられた弁護士と、謎は最後に明かされるという構造に於いて、 Sanctuary は detective fiction の要素を兼ね備えている。

しかし Horace を含めた登場人物の characterization と人物関係には、 Gothic fictionの要素も強いのである。 William Patrick Day の In the Circles of Fear and Desire には、 Gothic fiction の特徴だけでなく detective fiction とGothic fiction の類似点と相違点も記されている。「見る」という行為に於いて、この相違は重要な意味を持ってくる。主な相違点は、主要人物と事件との関わり方にある。 detective fiction で中心的人物となる探偵 ( detective ) は事件に直接関与することなく、距離を持って観察する人物であるのに対し、 Gothic fiction のヒーロー、ヒロインは自分の属さない “underworld” に迷い込み、そこで遭遇する他者 ( Other ) の中に自分の隠されたアイデンティティを見出し、冷静に「他者」との距離を保つことが出来なくなるのである。

Self と Other の境界線の揺らぎを Gothic fiction の登場人物は経験するのだが、この認識は「見ること」によって成される部分が大きい。 Sanctuary の登場人物は周りの者と深い人間関係を築くこともなく、相手が自分を見つめ返さない状態で相手を捉えることに固執している。 Sanctuary の小説空間では、視線は常に欲望を表し、視線の中に相手を捉えることは「優越」や「権威」に通じる。 Horace の容疑者の弁護人として最も外部から犯罪事件を観察する立場は detective に近いのであるが、 Old Frenchman place という “underworld” で Popeye に出会い自分の隠された自我と欲望に直面する点で、 Gothic fiction の male protagonist に通じるのである。

判事の娘 Temple Drake と Horace は自分達の respectableな社会からはぐれunderworld に迷い込み、その「他者性」に圧倒される。しかし物語が進行するにつれて、その二つの世界は極度に家父長的であるということが明らかになっていく。レイプ事件の被害者である Temple は常に「家父」に当たる最も権力を持つ人物 ( underworldではPopeye, respectableな社会では父の Drake 判事 ) に付き従うことで、死は免れている。彼女は「見られる対象」になっても、自らは物を「見て」理解することはない。彼女は一貫して家父長社会が期待する gender role から逸脱しないのである。

本発表では Sanctuary の detective fiction の要素との比較の中で、「上流社会」「下層社会」の対比と類似性の発見を特徴とした Gothic fiction の要素を再検討することで、二つの対比的な世界に表される家父長制とジェンダーの役割に基づく「家族」の形態について考察したい。


余田 真也 和光大学


William Faulknerのインディアンは、しばしば歴史的に不正確で、政治的にも正しくないといわれる。作家本人も「でっちあげ」と認めているように、史実と伝承と類型の寄せ集めなので、ミシシッピ・インディアンの歴史的な肖像としては歪である。史実との誤差はともかく、未開性を強調するかのような類型的なインディアン描写や、インディアン・テリトリーへの強制移住には言及してもその悲惨さには触れないこと、さらに20世紀同時代のインディアンをほとんど描かないことなどは、「政治的な正しさ」を求める批評風土においてはネガティヴな評価をうけざるをえない。

Faulknerが描くのは主に強制移住の時代から南北戦争後の時代に、白人に道を譲って消えていくインディアンである。南部白人にならって奴隷制を取り入れたIkkemotubbeの家系は、Doomという呼称にたがわず、消滅を運命づけられているかのようだ。チョクトーの血をひく現代の作家・批評家Louis Owensによれば、Doomはアメリカン・モダニズムにおいて盛んに描かれる、「ロマンティックで、脅威を感じさせない、自滅型のインディアン」の典型である。また“The Old People”や“The Bear”における混血インディアンSam Fathersと白人少年Issac McCaslinとの擬似的な父子関係や、その象徴となる似非人類学的な儀式の場面、あるいは近代以前の荒野の讃美などには未開趣味的なノスタルジアが色濃くにじむ。

Faulkner自身も「時代錯誤」(“anachronism”)と形容しているように、ミシシッピ・インディアンはすでに白人の前から姿を消していたが、単にノスタルジアの対象としてのみ想起されているわけではない。Faulknerは故郷が先住民の犠牲のうえに成立していたということに決して無自覚ではなかった。生来の土地を不当に略奪されたインディアンは亡霊となってとどまり、白人に敵意を抱き続けているという。またFaulknerが1930年に購入した屋敷が、Andrew Jackson政権下の1836年に購入された土地に建てられたものだという事実も、彼のインディアン表象になにがしか影響を及ぼしていただろう。少なくとも彼のいくつかのインディアン物語(たとえば“Lo!”や“A Bear Hunt”)は、グロテスクなユーモア、ほら話風の語り、風刺的なトーンによって「フロンティア神話」のロマンティシズムを失効させつつ、近代化のディレンマを創造的に生きのびようとするインディアンの姿をアイロニカルに照射している。

本発表では、上記の作品の他に“Red Leaves,” “Mountain Victory,” “A Justice,” “A Courtship,” Requiem for a Nun などを射程において、それらの作品に再構成されたインディアンと白人および黒人のエスニック文化関係の様相を、文化的な差異の撹乱者たる混成主体や、文化の界面に生起する混淆的・横断的な事象に焦点化して検証する。他のモダニズム作家(Willa CatherやErnest Hemingway)および先住民系作家(Mourning DoveやN. Scott Momaday)によるインディアン表象との比較もまじえながら、Faulknerのインディアン表象の特性を測定し、最終的には、帝国主義的かつ人種主義的なアメリカの近代とは別様の、異種混淆的な近代の痕跡をとどめる試みとして再定位してみたい。