余田 真也 和光大学
William Faulknerのインディアンは、しばしば歴史的に不正確で、政治的にも正しくないといわれる。作家本人も「でっちあげ」と認めているように、史実と伝承と類型の寄せ集めなので、ミシシッピ・インディアンの歴史的な肖像としては歪である。史実との誤差はともかく、未開性を強調するかのような類型的なインディアン描写や、インディアン・テリトリーへの強制移住には言及してもその悲惨さには触れないこと、さらに20世紀同時代のインディアンをほとんど描かないことなどは、「政治的な正しさ」を求める批評風土においてはネガティヴな評価をうけざるをえない。
Faulknerが描くのは主に強制移住の時代から南北戦争後の時代に、白人に道を譲って消えていくインディアンである。南部白人にならって奴隷制を取り入れたIkkemotubbeの家系は、Doomという呼称にたがわず、消滅を運命づけられているかのようだ。チョクトーの血をひく現代の作家・批評家Louis Owensによれば、Doomはアメリカン・モダニズムにおいて盛んに描かれる、「ロマンティックで、脅威を感じさせない、自滅型のインディアン」の典型である。また“The Old People”や“The Bear”における混血インディアンSam Fathersと白人少年Issac McCaslinとの擬似的な父子関係や、その象徴となる似非人類学的な儀式の場面、あるいは近代以前の荒野の讃美などには未開趣味的なノスタルジアが色濃くにじむ。
Faulkner自身も「時代錯誤」(“anachronism”)と形容しているように、ミシシッピ・インディアンはすでに白人の前から姿を消していたが、単にノスタルジアの対象としてのみ想起されているわけではない。Faulknerは故郷が先住民の犠牲のうえに成立していたということに決して無自覚ではなかった。生来の土地を不当に略奪されたインディアンは亡霊となってとどまり、白人に敵意を抱き続けているという。またFaulknerが1930年に購入した屋敷が、Andrew Jackson政権下の1836年に購入された土地に建てられたものだという事実も、彼のインディアン表象になにがしか影響を及ぼしていただろう。少なくとも彼のいくつかのインディアン物語(たとえば“Lo!”や“A Bear Hunt”)は、グロテスクなユーモア、ほら話風の語り、風刺的なトーンによって「フロンティア神話」のロマンティシズムを失効させつつ、近代化のディレンマを創造的に生きのびようとするインディアンの姿をアイロニカルに照射している。
本発表では、上記の作品の他に“Red Leaves,” “Mountain Victory,” “A Justice,” “A Courtship,” Requiem for a Nun などを射程において、それらの作品に再構成されたインディアンと白人および黒人のエスニック文化関係の様相を、文化的な差異の撹乱者たる混成主体や、文化の界面に生起する混淆的・横断的な事象に焦点化して検証する。他のモダニズム作家(Willa CatherやErnest Hemingway)および先住民系作家(Mourning DoveやN. Scott Momaday)によるインディアン表象との比較もまじえながら、Faulknerのインディアン表象の特性を測定し、最終的には、帝国主義的かつ人種主義的なアメリカの近代とは別様の、異種混淆的な近代の痕跡をとどめる試みとして再定位してみたい。