開始時刻 |
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司会 | 内容 |
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前川 玲子 |
1.中心を物語らぬ物語—John Dos Passos の Manhattan Transfer 中野 里美 : 明治大学(非常勤) |
花田 愛 : 明治大学(非常勤) |
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今村 楯夫 |
3.「文体」としての身体—The Sun Also Rises における不能の表象 久保 公人 : 大阪外国語大学(院) |
4."Fled is that music"—Tender Is the Nightに聴く「心の中の音楽」 田中 沙織 : 大阪大学(院) |
中野 里美 明治大学(非常勤)
1902年、ニューヨークに20階建てのフラットアイアン・ビルが竣工した。これを皮切りに以降1929年のエンパイア・ステート・ビルに至るまで次々にその高さを競い合い、マンハッタンが高層化し、古い建物は取り壊されていく。Dos Passosの Manhattan Transfer (1925)は、その20世紀初頭のマンハッタンに蝟集する移民の姿を冒頭に、時代を象徴する様々なものを取り込み、新聞の見出しや広告でコラージュした作品である。また作品中の言葉は移民たちの訛りと、Dos Passos特有の複合語が使われており、それらが様々なものを反映した色彩豊かな情景の中に細かく散りばめられ、マンハッタンという都市を構築している。
Dos Passosが用いた手法にカメラ・アイがあるが、第一次世界大戦後の好景気に沸く、写真のポジのような世界と裏腹に、Manhattan Transfer ではネガのように、多くの犯罪や社会不安と連動した人々の精神的な不安定さが垣間見える。この時代の若者をGertrude Steinは“lost generation”と呼び、Malcolm Cowleyは“exile”、または「傍観者的な態度でいる」者と称した。だが、John H. WrennはDos Passosをその枠で捉えることに満足せず、「単に傍観していたのではなく、自分の生きている世界を理解しようとしていた」と解釈する。またMax Geismarは同じ“lost generation”で括られるHemingwayとの比較において、Dos Passosは「1920年代に真の改革者、実験主義者としてアメリカにいた作家」と見ている。事実、Dos Passosは1920年に起きたSacco-Vanzetti事件の容疑者2人の処刑に抗議したことで、1927年に投獄されている。
こうした「単なる傍観者」ではないDos Passosが Manhattan Transfer で表現しようとしたことは何なのか。Wrennは、Dos Passosは「遍在する当時のアメリカの成功神話を批判している」と論じている。またJohn C. Waldmeirは、終戦後、政治家たちが「自由、正義、平等、幸福」といった「古い時代の言葉」で人々を操り続けようとするそのレトリックをDos Passoが見抜いていたことを作品と並行しながら例証していく。事実、アメリカは第一次世界大戦に絡んで、1917年を境に理想主義を失っていき、それまでのセルフメイド・マンの風潮に変化の兆しが見えていく。そして Manhattan Transfer では、移民のCongoが、禁酒法という抜け穴の多い法律を逆手に取り成り上がっていく様子を映し出している。これは今までの勤勉、質素という態度が成功に繋がるという規範が崩れてしまったことを明示するものである。そのためBud Korpenningのように何人かの登場人物は、都市の中心がどこにあるか分からず彷徨い続けることになる。タイトルのTransferが示すように、Manhattanはどこかへの「乗り換え」の場所であって、その中ではどこにも辿り着けないことを示唆している。本発表では、Dos Passosが、あえて中心を語らない、また中心のなさを追求することで当時の都市を描こうとしていたことを、先行する研究を踏まえつつ、考察していきたい。
花田 愛 明治大学(非常勤)
本発表では、Dos Passosの三部作 U.S.A. におけるメディアと空間の関係について論じる。19世紀末以降のテクノロジーのめざましい発達によって多種多様なメディアが生まれ、あらゆる空間が瞬時に媒介されるようになった。ラジオや新聞などのメディアは、単に物理的にそこにあるだけでなく、様々なレベルの空間実践を媒介している。これらのメディアは、オーディエンスとグローバル(あるいはローカル)な空間を結びつける。これらのメディアが配置される空間の間に見られる相互媒介的な関係を捉えるには、言説と実践、媒体の形式が絡まりあう場の政治学を空間論的なダイナミズムとして捉えていくことが必要である。
三部作 U.S.A. でも、独自の手法である4つの各モードそれぞれにおいてメディアの存在が様々な効果を発揮し、小説全体に大きな影響を与えている。「ナラティヴ」においては、大衆文化がメディアを通じて登場人物たちの生活の中に浸透し、それぞれに影響を与えている様子が綴られる。「ニューズリール」では、新聞の広告や流行歌の断片が紙面を踊る。これらの断片は、「ナラティヴ」との並行関係を持ちつつ、独立してその時代の出来事や流行を表象し、共時的に歴史の記録を顕示する。「伝記」には、新聞王として君臨したWilliam Randolph Hearstや映画スターのRudolph Valentinoなどのメディアに関わる人物の肖像が描かれる。彼らの描かれ方からは、Dos Passosのメディアに対する姿勢を窺い知ることができる。「カメラ・アイ」においては、自伝的かつ「意識の流れ」的な語りが展開される。カメラは、本来、映像や写真などの空間的光景を映し出す機械である。しかし、「カメラ・アイ」においては、他の3つのモードと比較しても、最も作家の自己言及的な内容や集団的なアイデンティティを誇示するフレーズが展開されている。
このように U.S.A. では、メディアが広がる空間が全編に渡って描かれている。しかし、風刺的なテクノロジーの発展の描写を根拠に、Dos Passosの立場を反テクノロジー・反産業主義に還元してしまうのではなく、また、これらのメディアによる挿話が、4つのモードの相互補完関係を構築しているという議論に留まるのではなく、Dos Passosが、特権化された個人だけが空間を移動し、空間の実体を手にしていくモダニズム的空間の生産を脱構築する手段の一つとして、これらのメディアで埋め尽くされた空間を U.S.A. の中に作り出していたと考えたい。本発表では、これらのメディアの存在が、いかなる機能を果たしているかを明らかにし、そこにどのような空間的力学が働いているかを検証する。そして、それらを踏まえ、U.S.A. を言説と実践、媒体が絡み合う空間をダイナミックに描き出している作品として再評価したい。
久保 公人 大阪外国語大学(院)
The Sun Also Rises (1926)のJake Barnesは、男性機能が欠如した悲劇の主人公である。彼の戦傷は、未だにこの小説を謎めいたものにしており、そこに何か比喩的な意味を読み込もうとする読者も少なくないはずだ。Hemingwayは A Moveable Feast (1964)において、“After writing a story I was always empty and both sad and happy, as though I had made love”と述べ、書く行為に性的な含みを持たせている。実際Jakeは新聞記者として「書くこと」を生業にしているが、それは文学作品を「書くこと」とは必ずしも同一レベルで捉えることはできない。Death in the Afternoon (1932)の中で、記者時代の経験をもとにHemingway自身もこのことを言及しているが、本論では「書くこと」に対する困難を抱えた作家とJakeとの相同関係を考察し、Jakeの男性機能の欠如が、「書くこと」の困難といかに密接な隠喩的関係を結んでいるかを論じていきたい。
ここで前景化されるのが、記者を辞めた後、Hemingwayが書く行為を通して男性的な有名作家のアイデンティティーを確立したように見えることである。果たして、彼にとって書くことと男性性とは不可分に関係づけられているのだろうか。また、男性としてのアイデンティティーを獲得できないJakeは、執筆活動を通じて男性性を構築する以前の無名の記者Hemingwayと相同関係をなすと言えるだろうか。以上の疑問を手がかりにしてJakeと他の登場人物との身体をめぐる隠喩関係へと目を向け、「文体」としての身体という観点から The Sun Also Rises における不能の表象を分析していく。
その際、三つの論点に焦点を絞って議論を進めていきたい。まず、男性機能を失ったJakeはBrettを永遠に手に入れられないが、このことは、作家/JakeがBrettというシニフィエを仕留めるペンを永遠に持てないことを果たして意味するのか。次に、Jakeにとって自己を映す鏡の役割を果たすCohnに、彼は認めたくない自己の一面を認めるが、それは作家にとってCohnが拙劣な文体を引き出す自己の一面を表象しているのかどうか。さらには、Brettを虜にする闘牛士Romeroの虚飾をそぎ落とした身体的パフォーマンスが「氷山の理論」といかなる関係にあり、闘牛を仕留める彼の所作がHemingwayの乾いた文体の成立とどのように関わるかという問いかけである。
以上のように、エクリチュールの観点からJakeの性的不能に着目することにより、The Sun Also Rises を、理想の文体の探求とその文体に到達することに困難を覚える作家の苦悶を表象した、Hemingwayのメタフィクション的意匠が織り込まれた作品として捉え、作家/Jakeの身体の残像としての不能の「筆跡」をテキストの中に探ってみたい。
田中 沙織 大阪大学(院)
F. Scott Fitzgeraldの Tender Is the Night はJohn Keatsの”Ode to a Nightingale”をその表題とエピグラムに引用しながらも、本文中では透明で美しい声を持つ夜鳴き鳥Nightingaleの名を一度言及するのみである。この小説はフラッシュバックし、カットを繋ぎ合わせるかのように61の細かな章で構成されており、映画の構造に類似している。またFitzgeraldは「ブランクーシ、レジェ、ピカソの粗さが全くない」人物と、キュビズムの画家と彫刻家をもとに主人公Dick Diverを構想していた。つまり、本作は幕開けの南仏リヴィエラの華やかな色彩、映画、夜の闇と昼の光の対照に代表される視覚芸術性が支配的であり、詩的な文体に顕著な音楽性は背景へと押しやられている。
しかし、「—カーテンを下してもかまいませんか?」というDickの心にこだまする声だと推定される挿入句がサブリミナルに6箇所も組み込まれていることや、彼がNicoleとの離婚後、消失点や点描画の点のように「夏の雑沓の中の一点」となって消えて行くことに着目すると、心の閉鎖と並行して視覚が閉ざされ、Dick、Nicole、Rosemaryの心理を奏でる「心の中の音楽」が前景化されることに気付く。ここでいう音楽とはきちんとした旋律や歌詞のある楽曲だけではなく、メトロノームのような時計の針の音、様々な時間感覚、足音、科白の響き、KeatsやT. S. Eliotの詩の反響など時間の芸術である音楽の持つあらゆるリズムや音色を意味する。作品中の人物の「心の中の音楽」が心の鼓動と連動してリズムを刻む点を考察したい。
この作品はDickの崩壊の過程を十分に描き切っていないとの批判がある。確かに精神科医と患者の関係という構図をもとにした観点に立てば、その批判を否定することはできない。しかし点在するあまりに断片的な音楽を拾い集めると、作品中の人物の「心の中の音楽」を見るでもなく、分析するでもなく、聴くことができるのではないだろうか。
本発表ではKeatsとEliotの詩や作品中に響くジャズの歌詞を援用しながら、Tender Is the Night の”melodious plot” (“Ode”) に耳を傾け、Dick、Nicole、Rosemaryの心理の変遷を浮かび上がらせたい。そして、Dickが点として消えて行く過程とは、”melodious plot”が”Fled is that music” (“Ode”) と消えて行く過程だと結論付けたい。