田中 沙織 大阪大学(院)
F. Scott Fitzgeraldの Tender Is the Night はJohn Keatsの”Ode to a Nightingale”をその表題とエピグラムに引用しながらも、本文中では透明で美しい声を持つ夜鳴き鳥Nightingaleの名を一度言及するのみである。この小説はフラッシュバックし、カットを繋ぎ合わせるかのように61の細かな章で構成されており、映画の構造に類似している。またFitzgeraldは「ブランクーシ、レジェ、ピカソの粗さが全くない」人物と、キュビズムの画家と彫刻家をもとに主人公Dick Diverを構想していた。つまり、本作は幕開けの南仏リヴィエラの華やかな色彩、映画、夜の闇と昼の光の対照に代表される視覚芸術性が支配的であり、詩的な文体に顕著な音楽性は背景へと押しやられている。
しかし、「—カーテンを下してもかまいませんか?」というDickの心にこだまする声だと推定される挿入句がサブリミナルに6箇所も組み込まれていることや、彼がNicoleとの離婚後、消失点や点描画の点のように「夏の雑沓の中の一点」となって消えて行くことに着目すると、心の閉鎖と並行して視覚が閉ざされ、Dick、Nicole、Rosemaryの心理を奏でる「心の中の音楽」が前景化されることに気付く。ここでいう音楽とはきちんとした旋律や歌詞のある楽曲だけではなく、メトロノームのような時計の針の音、様々な時間感覚、足音、科白の響き、KeatsやT. S. Eliotの詩の反響など時間の芸術である音楽の持つあらゆるリズムや音色を意味する。作品中の人物の「心の中の音楽」が心の鼓動と連動してリズムを刻む点を考察したい。
この作品はDickの崩壊の過程を十分に描き切っていないとの批判がある。確かに精神科医と患者の関係という構図をもとにした観点に立てば、その批判を否定することはできない。しかし点在するあまりに断片的な音楽を拾い集めると、作品中の人物の「心の中の音楽」を見るでもなく、分析するでもなく、聴くことができるのではないだろうか。
本発表ではKeatsとEliotの詩や作品中に響くジャズの歌詞を援用しながら、Tender Is the Night の”melodious plot” (“Ode”) に耳を傾け、Dick、Nicole、Rosemaryの心理の変遷を浮かび上がらせたい。そして、Dickが点として消えて行く過程とは、”melodious plot”が”Fled is that music” (“Ode”) と消えて行く過程だと結論付けたい。