久保 公人 大阪外国語大学(院)
The Sun Also Rises (1926)のJake Barnesは、男性機能が欠如した悲劇の主人公である。彼の戦傷は、未だにこの小説を謎めいたものにしており、そこに何か比喩的な意味を読み込もうとする読者も少なくないはずだ。Hemingwayは A Moveable Feast (1964)において、“After writing a story I was always empty and both sad and happy, as though I had made love”と述べ、書く行為に性的な含みを持たせている。実際Jakeは新聞記者として「書くこと」を生業にしているが、それは文学作品を「書くこと」とは必ずしも同一レベルで捉えることはできない。Death in the Afternoon (1932)の中で、記者時代の経験をもとにHemingway自身もこのことを言及しているが、本論では「書くこと」に対する困難を抱えた作家とJakeとの相同関係を考察し、Jakeの男性機能の欠如が、「書くこと」の困難といかに密接な隠喩的関係を結んでいるかを論じていきたい。
ここで前景化されるのが、記者を辞めた後、Hemingwayが書く行為を通して男性的な有名作家のアイデンティティーを確立したように見えることである。果たして、彼にとって書くことと男性性とは不可分に関係づけられているのだろうか。また、男性としてのアイデンティティーを獲得できないJakeは、執筆活動を通じて男性性を構築する以前の無名の記者Hemingwayと相同関係をなすと言えるだろうか。以上の疑問を手がかりにしてJakeと他の登場人物との身体をめぐる隠喩関係へと目を向け、「文体」としての身体という観点から The Sun Also Rises における不能の表象を分析していく。
その際、三つの論点に焦点を絞って議論を進めていきたい。まず、男性機能を失ったJakeはBrettを永遠に手に入れられないが、このことは、作家/JakeがBrettというシニフィエを仕留めるペンを永遠に持てないことを果たして意味するのか。次に、Jakeにとって自己を映す鏡の役割を果たすCohnに、彼は認めたくない自己の一面を認めるが、それは作家にとってCohnが拙劣な文体を引き出す自己の一面を表象しているのかどうか。さらには、Brettを虜にする闘牛士Romeroの虚飾をそぎ落とした身体的パフォーマンスが「氷山の理論」といかなる関係にあり、闘牛を仕留める彼の所作がHemingwayの乾いた文体の成立とどのように関わるかという問いかけである。
以上のように、エクリチュールの観点からJakeの性的不能に着目することにより、The Sun Also Rises を、理想の文体の探求とその文体に到達することに困難を覚える作家の苦悶を表象した、Hemingwayのメタフィクション的意匠が織り込まれた作品として捉え、作家/Jakeの身体の残像としての不能の「筆跡」をテキストの中に探ってみたい。