中野 里美 明治大学(非常勤)
1902年、ニューヨークに20階建てのフラットアイアン・ビルが竣工した。これを皮切りに以降1929年のエンパイア・ステート・ビルに至るまで次々にその高さを競い合い、マンハッタンが高層化し、古い建物は取り壊されていく。Dos Passosの Manhattan Transfer (1925)は、その20世紀初頭のマンハッタンに蝟集する移民の姿を冒頭に、時代を象徴する様々なものを取り込み、新聞の見出しや広告でコラージュした作品である。また作品中の言葉は移民たちの訛りと、Dos Passos特有の複合語が使われており、それらが様々なものを反映した色彩豊かな情景の中に細かく散りばめられ、マンハッタンという都市を構築している。
Dos Passosが用いた手法にカメラ・アイがあるが、第一次世界大戦後の好景気に沸く、写真のポジのような世界と裏腹に、Manhattan Transfer ではネガのように、多くの犯罪や社会不安と連動した人々の精神的な不安定さが垣間見える。この時代の若者をGertrude Steinは“lost generation”と呼び、Malcolm Cowleyは“exile”、または「傍観者的な態度でいる」者と称した。だが、John H. WrennはDos Passosをその枠で捉えることに満足せず、「単に傍観していたのではなく、自分の生きている世界を理解しようとしていた」と解釈する。またMax Geismarは同じ“lost generation”で括られるHemingwayとの比較において、Dos Passosは「1920年代に真の改革者、実験主義者としてアメリカにいた作家」と見ている。事実、Dos Passosは1920年に起きたSacco-Vanzetti事件の容疑者2人の処刑に抗議したことで、1927年に投獄されている。
こうした「単なる傍観者」ではないDos Passosが Manhattan Transfer で表現しようとしたことは何なのか。Wrennは、Dos Passosは「遍在する当時のアメリカの成功神話を批判している」と論じている。またJohn C. Waldmeirは、終戦後、政治家たちが「自由、正義、平等、幸福」といった「古い時代の言葉」で人々を操り続けようとするそのレトリックをDos Passoが見抜いていたことを作品と並行しながら例証していく。事実、アメリカは第一次世界大戦に絡んで、1917年を境に理想主義を失っていき、それまでのセルフメイド・マンの風潮に変化の兆しが見えていく。そして Manhattan Transfer では、移民のCongoが、禁酒法という抜け穴の多い法律を逆手に取り成り上がっていく様子を映し出している。これは今までの勤勉、質素という態度が成功に繋がるという規範が崩れてしまったことを明示するものである。そのためBud Korpenningのように何人かの登場人物は、都市の中心がどこにあるか分からず彷徨い続けることになる。タイトルのTransferが示すように、Manhattanはどこかへの「乗り換え」の場所であって、その中ではどこにも辿り着けないことを示唆している。本発表では、Dos Passosが、あえて中心を語らない、また中心のなさを追求することで当時の都市を描こうとしていたことを、先行する研究を踏まえつつ、考察していきたい。