開始時刻 |
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司会 | 内容 |
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野口 健司 |
大川 淳 : 関西学院大学(院) |
2.Melvilleの"Rip Van Winkle's Lilac"における主題と語りの形式の相関関係について 真田 満 : 龍谷大学(非常勤) |
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橋本 安央 |
3.Tom/moは何者か?— Typee におけるジェンダー・アイデンティティの再構築 高橋 愛 : お茶の水女子大学(院) |
4.主体と現実認識— Melville の "Benito Cereno" 佐々木 英哲 : 桃山学院大学 |
大川 淳 関西学院大学(院)
Herman Melvilleの短編作品、“Bartleby the Scrivener: A Story of Wall-Street”について、語り手とBartlebyのいわば「父」と「子」として捉えられるような関係性とその関係性の反転する動きを考察しながら論じる。
この短編の舞台となるウォール街はいわば資本主義経済の心臓部であるが、この作品がこの舞台を前景化していることは、語り手の意識が資本主義精神に深く彩られていることを示唆するものである。しかし、この短編小説の難解さはストーリーが進むにつれて激しく揺れ動く語り手の不安定な精神状態にある。小説に首尾一貫して起こる彼の不可解な精神状態と行動は、Bartlebyという突然現れた一人の青年によって引き起こされる。語り手はBartlebyに奇妙に惹きつけられるのだが、次第に恐怖をおぼえBartlebyから逃亡するという動きを繰り返し続ける。この不可解な行動に加えて名前を隠蔽しつづける語り手に対して、読者は懐疑的にならざるを得ない。つまり読者は語りの信用性を確信できないままBartlebyの幻影のような存在を見せつけられ、語り手の二重の不可解性に振り回されることになる。ゆえに語り手の不可解性を解き明かすことがこの短編小説を解釈する上で必要となってくるのである。
語り手がBartlebyに引き付けられ逃亡するといった、求心的な動きと遠心的な動きが起こる理由は、語り手に矛盾して内在する神に対しての「子」の意識と資本主義的な「父」の意識が関係している。語り手はBartlebyの雇い主であるから、事務所内では語り手が『父』となり、または「法」となりBartlebyを「子」と捉えて束縛しようとする。その一方で語り手は自らをBartlebyと同じ「父」である神に対しての「子」として認識し「兄弟」としてBartlebyを理解しようとする。このようにBartlebyに対して「父」であり「兄弟」といった語り手の精神には両面価値が認められる。しかしこのような語り手の精神はBartlebyの“I would prefer not to”という言葉によって不安定になり、それに伴い行動も不可解なものになる。本作品では、この「父」と「子」の関係を「食」というモチーフを用いながら暗示している。語り手の描写には「食」にまつわる意味をもつ語彙が多用されていて、この「食」というものが中心人物Bartlebyに対してのみではなく、他の雇い人に対しても比喩的な一つのモチーフとして機能していることが読み取れる。つまり「食」というモチーフが語り手の意識を暗示するものとして機能し、語り手の不可解な精神状態の解明に関しても切り口を与えうるのである。こうした見地から、“Bartleby the Scrivener: A Story of Wall-Street”における、語り手の意識に注目し、「食」というモチーフから考察することによって、語り手とBartlebyの「父」と「子」の関係が反転する動きを探ってみたい。
真田 満 龍谷大学(非常勤)
Herman Melvilleの“Rip Van Winkle’s Lilac”は、散文と韻文からなる奇妙な形式の作品である。タイトルから容易に判断できるように、Melvilleはこの小品でWashington Irvingの“Rip Van Winkle”の物語を語り直している。それだけでなく、Melvilleは新たな登場人物として芸術家である画家と世俗的な村人を登場させ、そのことによって作品に独自の主題を織り込んだ。主題のひとつが有用性を追求する社会における芸術家のあり方である。それゆえ、この主題の周りに、この問題を際立たせる近代の社会構造の問題や、特にピクチャレスクを求める画家にとっての自然の問題が浮かび上がってくる。
IrvingのRip物語とは異なり、Melvilleはこの作品でRipの嗅覚を強調し、彼が自然児であるかのような性格描写を行っている。芸術を理解しない村人は、Ripのように無為に過ごし、絵の対象としてRipのあばら家に執着し、有用なものを描こうとしない芸術家を非難する。HorkheimerとAdornoの Dialectic of Enlightenment を援用して理解すれば、人類の進歩のために原始的自然状態から自らを疎外した私たちは、再びそのような自然状態に戻らないようにしなければならない。つまり私たちは、Siren=自然の魅力に屈し、自然へと戻ることのないように自らをきつくマストに縛りつける不自由なOdysseusのような存在なのである。朽ちていく、自然に戻ろうとするRipのあばら家と、自然そのものであるライラックを描く画家を非難する村人は、HorkheimerとAdornoが理解したようなOdysseusである。しかし、自然を愛し、自然を描くことはできても、そこへ全面的に戻るつもりのない、疎外された自然を回復することのない画家もOdysseusである。画家は村人から聞かされた自然児Ripの話に興味をもつのだが、彼は自然を崇拝するだけで、そこに回帰することはないだろう。理性で自らを抑えつけることを止めず、絶えず進歩を肯定する文明世界に留まり続けるだろう。自然を搾取し、人類の進歩に役立つ開拓(自然破壊)行為の進行を、芸術家は文明側から眺め、嘆くことしかしないだろう。直接Ripを知らない画家は、Ripが帰郷したとき、画家からすればRipが“picturesque resurrection”を果たしたときに出会っていれば、彼はRipを描いたはずである。不自由な近代社会に生きる私たちからすれば、自由な、自然と一体化したようなRipは人間的な理想でもあり、芸術的な理想でもある。それは私たちから疎外された自然であり、芸術の対象である美だ。
John Bryantによれば、“Rip Van Winkle’s Lilac”は初め韻文として構想されたが、後に物語前半が散文へ移行した。作品の主題を通して考えた場合、この特異な構成は何を意味するのだろうか。本発表では、理想的な美=自然から自らを疎外した、進歩を肯定する束縛された近代人という主題の図式とその語りの形式との関係を深く考えたい。
高橋 愛 お茶の水女子大学(院)
Herman Melvilleの作品では、女が排除された世界を舞台に、男同士の濃密な関係が描き込まれてきた。「女」を周縁化することで「男」を構築していった近代社会にあって、女が排除されているという点で、また性的な要素も匂わせる濃密な男同士の関係が描かれているという点で、Melvilleの作品は特異であり、そこで描かれる「男」は近代社会の措定するものとは異なっている。登場人物のジェンダーやセクシュアリティを読み解くことで、Melvilleのテクストにおけるジェンダー観はもちろん、ジェンダーやセクシュアリティという概念の構築性もが解明されることであろう。
男だけの濃密な世界が描かれるというMelvilleの作品の特徴は、第一長編の Typee にすでに見受けられる。この作品では、ヌクヒヴァ島への滞在を余儀なくされた青年の体験が語られている。人種とジェンダーとを関連づける言説を踏まえれば、この青年の体験には近代社会のジェンダー規範の動揺も含まれているだろう。彼のアイデンティティの軌跡は、Melvilleのテクストが照らし出すジェンダー観の分析において無視できないものである。
語り手である青年のジェンダー・アイデンティティを考察するうえで、まず注目したいのが彼の名前である。Tommoという名前を得るまで、彼は名前で呼びかけられることがない。逃亡の相棒であるTobyと比較してみても、語り手に対する名前での呼びかけの欠如は際だっている。命名や呼びかけを通して主体化がおこなわれるという概念を踏まえれば、西洋的な名前による呼びかけの回避とTommoという西洋とマルケサスの折衷的な名前の選択は、主体化に対して語り手が取ろうとする姿勢を反映し、彼をアイデンティティの再構築へと向かわせるものだと考えられる。ただし、彼は西洋の影響力から完全に脱しているわけでも、タイピーと完全に同一化しているわけでもない。このことは、彼の身体にタイピーの影響力が行使されそうになった際に、つまり、入れ墨を顔に施すように求められた際に明らかとなる。身体加工には固定化した価値観から身体を解放する転覆的な可能性があるが、彼は入れ墨に対する嫌悪を克服できずに島からの脱出を図る。語り手の身体加工への徹底した嫌悪は、西洋に対する非西洋として既に構築されている価値観に回収されることを拒絶しようという彼の意志を表すものであろう。しかし、入れ墨に関して彼が示す態度は、近代西洋社会のジェンダー規範からの解放という点とは矛盾するものであり、彼のアイデンティティの再構築にとっては問題含みのものである。
本発表では、語り手の匿名性とTommoという彼が選択した折衷的な名がこの青年のアイデンティティにどのような影響をもたらし、さらに入れ墨という身体の問題が彼のアイデンティティの再構築の成否とどのように関わっているかについて検証していきたい。
佐々木 英哲 桃山学院大学
Herman Melvilleの“Benito Cereno”ではナイーヴなアメリカ人Amasa Delanoの視点で捉えられたスペイン奴隷船に関わる現実が展開する。その現実とは反乱黒人奴隷達によって偽造された現実でもあるが、Delano本人が無意識のうちに誤認し偽造した現実である。ところでFoucaultに倣えば、事態・現実を知る/監視する/管理することが可能な者は政治的知の主体として理想的ポジションが与えられている者と言えよう。今回の発表では、Delanoが現実を認識する知のプロセスを解きほぐし、どのように主体が産出され、どのように内部崩壊していくのか、そのメカニズムを論証する。
Delanoは中国産絹の仕入れに携わるから北部繊維産業に関わり間接的に南部奴隷制綿花産業にも加担する。1621年に渡米したPhillipe de la Noye に遡る名門の一員でカノニカルなアメリカ史を語れるポジションにある。歴史と言えば18世紀末という物語設定時代から南北戦争勃発前という作者の執筆時代にかけ、不穏な空気が漂っていた。スペイン奴隷船San Dominick号を連想させるカリブ海ヒスパニョーラ島Saint Domingo でのL’Ouvertureによる奴隷反乱(1804)やNat Turner事件(1831)は南部白人達を震撼させた。南部白人は黒人に「従順で子供っぽく、南部の平和と秩序に貢献する存在」とするサンボ・ステレオタイプ像を押しつけて主体的能動的な自己表現機能を奪い、自らの主体性を強化した。Delanoも狡猾に立ち回る黒人Baboを忠実なサンボと捉える。善良と描写されるDelanoは、まさに無垢故に無意識のうちにサンボ・イデオロギーを政治的に操作し北部資本主義のエリート白人として主体性を強化する。同時に彼は現実を理解する機能を著しく損なう結果を招く。Althusser の言を俟つまでもなく、主体が能動的に自らの考えをめぐらす前にその主体の見方を決定するのがイデオロギーであるからだ。Delanoは政治的知の主体としての特権性を強化しながらも、逆に知の特権的主体性を内側から崩壊させる皮肉な結果を招くわけだ。
さて中産階級白人女性主導によるセンチメンタル文化に傾斜する当時のアメリカで、特権的主体の担い手は形の上では依然エリート白人男性、正確を期せば異性愛主義男性だった。しかしDelanoは脱性化されている。イデオロギーで歪む想像上の現実界で孤高のエリートのBachelor's Delight号船長Delanoは、他者[=従順を装う知的で凶暴な黒人Babo、帝国アメリカの保護を必要とする(とみなされた)老大国スペインの人間Cereno]に向かっては保護/支配の立場をとりつつも、同性愛的な秋波を送る。事実、Delanoの目にはBaboとCerenoが“love-quarrel”のできる関係と映るし、差し向かいとなったDelanoとCerenoは“like a childless couple” と語り手から描写される。Delanoのジェンダー・トラブルに端を発する綻びは、勢い主体と人種に関わる神話の崩壊に拍車をかけることになる。
発表ではサンボ・イデオロギーを例証するサブカルチャー的事象を視野に収めつつフェミニズムも援用しながら検証を進め、北部資本主義を生きるDelanoが主体(subject) でも主人(master)でもなく、スレイヴ・ディスコースに於ける奴隷(slave) となんら変わらぬポジションにあることを結論的に提示する予定である。