真田 満 龍谷大学(非常勤)
Herman Melvilleの“Rip Van Winkle’s Lilac”は、散文と韻文からなる奇妙な形式の作品である。タイトルから容易に判断できるように、Melvilleはこの小品でWashington Irvingの“Rip Van Winkle”の物語を語り直している。それだけでなく、Melvilleは新たな登場人物として芸術家である画家と世俗的な村人を登場させ、そのことによって作品に独自の主題を織り込んだ。主題のひとつが有用性を追求する社会における芸術家のあり方である。それゆえ、この主題の周りに、この問題を際立たせる近代の社会構造の問題や、特にピクチャレスクを求める画家にとっての自然の問題が浮かび上がってくる。
IrvingのRip物語とは異なり、Melvilleはこの作品でRipの嗅覚を強調し、彼が自然児であるかのような性格描写を行っている。芸術を理解しない村人は、Ripのように無為に過ごし、絵の対象としてRipのあばら家に執着し、有用なものを描こうとしない芸術家を非難する。HorkheimerとAdornoの Dialectic of Enlightenment を援用して理解すれば、人類の進歩のために原始的自然状態から自らを疎外した私たちは、再びそのような自然状態に戻らないようにしなければならない。つまり私たちは、Siren=自然の魅力に屈し、自然へと戻ることのないように自らをきつくマストに縛りつける不自由なOdysseusのような存在なのである。朽ちていく、自然に戻ろうとするRipのあばら家と、自然そのものであるライラックを描く画家を非難する村人は、HorkheimerとAdornoが理解したようなOdysseusである。しかし、自然を愛し、自然を描くことはできても、そこへ全面的に戻るつもりのない、疎外された自然を回復することのない画家もOdysseusである。画家は村人から聞かされた自然児Ripの話に興味をもつのだが、彼は自然を崇拝するだけで、そこに回帰することはないだろう。理性で自らを抑えつけることを止めず、絶えず進歩を肯定する文明世界に留まり続けるだろう。自然を搾取し、人類の進歩に役立つ開拓(自然破壊)行為の進行を、芸術家は文明側から眺め、嘆くことしかしないだろう。直接Ripを知らない画家は、Ripが帰郷したとき、画家からすればRipが“picturesque resurrection”を果たしたときに出会っていれば、彼はRipを描いたはずである。不自由な近代社会に生きる私たちからすれば、自由な、自然と一体化したようなRipは人間的な理想でもあり、芸術的な理想でもある。それは私たちから疎外された自然であり、芸術の対象である美だ。
John Bryantによれば、“Rip Van Winkle’s Lilac”は初め韻文として構想されたが、後に物語前半が散文へ移行した。作品の主題を通して考えた場合、この特異な構成は何を意味するのだろうか。本発表では、理想的な美=自然から自らを疎外した、進歩を肯定する束縛された近代人という主題の図式とその語りの形式との関係を深く考えたい。