高橋 愛 お茶の水女子大学(院)
Herman Melvilleの作品では、女が排除された世界を舞台に、男同士の濃密な関係が描き込まれてきた。「女」を周縁化することで「男」を構築していった近代社会にあって、女が排除されているという点で、また性的な要素も匂わせる濃密な男同士の関係が描かれているという点で、Melvilleの作品は特異であり、そこで描かれる「男」は近代社会の措定するものとは異なっている。登場人物のジェンダーやセクシュアリティを読み解くことで、Melvilleのテクストにおけるジェンダー観はもちろん、ジェンダーやセクシュアリティという概念の構築性もが解明されることであろう。
男だけの濃密な世界が描かれるというMelvilleの作品の特徴は、第一長編の Typee にすでに見受けられる。この作品では、ヌクヒヴァ島への滞在を余儀なくされた青年の体験が語られている。人種とジェンダーとを関連づける言説を踏まえれば、この青年の体験には近代社会のジェンダー規範の動揺も含まれているだろう。彼のアイデンティティの軌跡は、Melvilleのテクストが照らし出すジェンダー観の分析において無視できないものである。
語り手である青年のジェンダー・アイデンティティを考察するうえで、まず注目したいのが彼の名前である。Tommoという名前を得るまで、彼は名前で呼びかけられることがない。逃亡の相棒であるTobyと比較してみても、語り手に対する名前での呼びかけの欠如は際だっている。命名や呼びかけを通して主体化がおこなわれるという概念を踏まえれば、西洋的な名前による呼びかけの回避とTommoという西洋とマルケサスの折衷的な名前の選択は、主体化に対して語り手が取ろうとする姿勢を反映し、彼をアイデンティティの再構築へと向かわせるものだと考えられる。ただし、彼は西洋の影響力から完全に脱しているわけでも、タイピーと完全に同一化しているわけでもない。このことは、彼の身体にタイピーの影響力が行使されそうになった際に、つまり、入れ墨を顔に施すように求められた際に明らかとなる。身体加工には固定化した価値観から身体を解放する転覆的な可能性があるが、彼は入れ墨に対する嫌悪を克服できずに島からの脱出を図る。語り手の身体加工への徹底した嫌悪は、西洋に対する非西洋として既に構築されている価値観に回収されることを拒絶しようという彼の意志を表すものであろう。しかし、入れ墨に関して彼が示す態度は、近代西洋社会のジェンダー規範からの解放という点とは矛盾するものであり、彼のアイデンティティの再構築にとっては問題含みのものである。
本発表では、語り手の匿名性とTommoという彼が選択した折衷的な名がこの青年のアイデンティティにどのような影響をもたらし、さらに入れ墨という身体の問題が彼のアイデンティティの再構築の成否とどのように関わっているかについて検証していきたい。