大川 淳 関西学院大学(院)
Herman Melvilleの短編作品、“Bartleby the Scrivener: A Story of Wall-Street”について、語り手とBartlebyのいわば「父」と「子」として捉えられるような関係性とその関係性の反転する動きを考察しながら論じる。
この短編の舞台となるウォール街はいわば資本主義経済の心臓部であるが、この作品がこの舞台を前景化していることは、語り手の意識が資本主義精神に深く彩られていることを示唆するものである。しかし、この短編小説の難解さはストーリーが進むにつれて激しく揺れ動く語り手の不安定な精神状態にある。小説に首尾一貫して起こる彼の不可解な精神状態と行動は、Bartlebyという突然現れた一人の青年によって引き起こされる。語り手はBartlebyに奇妙に惹きつけられるのだが、次第に恐怖をおぼえBartlebyから逃亡するという動きを繰り返し続ける。この不可解な行動に加えて名前を隠蔽しつづける語り手に対して、読者は懐疑的にならざるを得ない。つまり読者は語りの信用性を確信できないままBartlebyの幻影のような存在を見せつけられ、語り手の二重の不可解性に振り回されることになる。ゆえに語り手の不可解性を解き明かすことがこの短編小説を解釈する上で必要となってくるのである。
語り手がBartlebyに引き付けられ逃亡するといった、求心的な動きと遠心的な動きが起こる理由は、語り手に矛盾して内在する神に対しての「子」の意識と資本主義的な「父」の意識が関係している。語り手はBartlebyの雇い主であるから、事務所内では語り手が『父』となり、または「法」となりBartlebyを「子」と捉えて束縛しようとする。その一方で語り手は自らをBartlebyと同じ「父」である神に対しての「子」として認識し「兄弟」としてBartlebyを理解しようとする。このようにBartlebyに対して「父」であり「兄弟」といった語り手の精神には両面価値が認められる。しかしこのような語り手の精神はBartlebyの“I would prefer not to”という言葉によって不安定になり、それに伴い行動も不可解なものになる。本作品では、この「父」と「子」の関係を「食」というモチーフを用いながら暗示している。語り手の描写には「食」にまつわる意味をもつ語彙が多用されていて、この「食」というものが中心人物Bartlebyに対してのみではなく、他の雇い人に対しても比喩的な一つのモチーフとして機能していることが読み取れる。つまり「食」というモチーフが語り手の意識を暗示するものとして機能し、語り手の不可解な精神状態の解明に関しても切り口を与えうるのである。こうした見地から、“Bartleby the Scrivener: A Story of Wall-Street”における、語り手の意識に注目し、「食」というモチーフから考察することによって、語り手とBartlebyの「父」と「子」の関係が反転する動きを探ってみたい。