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司会 | 内容 |
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森 慎一郎 |
1.Fitzgeraldの書くことへの信仰——Tender is the Night 及び後期自伝的エッセイ 池田 幸恵 : 広島大学(院) |
樋口 友乃 |
2.自画像に透けた最後の「現実」——Speak, Memory における「自伝の誤謬」をめぐって 後藤 篤 : 大阪大学(院) |
瀬名波栄潤 |
3.継承されるホモセクシュアリティ——Suddenly Last Summerにおけるクィア性の肯定的な表象 真野貴世子 : 成蹊大学(院) |
4.ホモソーシャリティとヘテロセクシュアリティの葛藤——『武器よさらば』・マーヴェル・彫刻 竹内 理矢 : 立教大学(非常勤) |
池田 幸恵 広島大学(院)
F. Scott Fitzgerald が1934年に出版したTender is the Night (以下TITN ) は主人公Dick Diverの破滅を描いた物語である。しかし,そのDickの破滅に説得力がない,破滅の理由があいまいであるという点は,出版当初から現在に渡って最も読者や批評家を悩ませてきた問題であった。Fitzgerald自身はDickの破滅は明確な意図をもって描いたものだと述べており,そのような批判に対して困惑を示した。
このDickの破滅の理由には彼の職業が関係していると考えられる。というのも,Fitzgeraldは1938年にTITN を改訂して再び出版する意思を編集者へ伝えているが,その中でFitzgeraldは“psychiatrist”としてのDickを物語の起点として捉えており,“psychiatrist”という職業をTITN における重要な点と見ていたと言える。さらには,友人Edmund Wilsonへ送った手紙からもFitzgeraldはDickの破滅と彼の職業とは切り離せないものと考えていたことが明らかだ。
これまでもDickの職業を考察した論考はなされてきたが,それらはいずれもDickを“psychiatrist”としてだけ扱ってきた。それ故“psychiatrist”であるはずのDickを本作品中では“psychologist”と表現している箇所が複数あるにもかかわらず,それらは単に“psychiatrist”の言い換えにすぎないものと考えられがちであった。しかし,この点が正確に使い分けられていると仮定し,Dickを“psychiatrist”としてだけでなく,“psychologist”としても捉えるならば,Dickを破滅に至らせる理由がより明確に見えてくる。
Dickの職業の問題はまた,Fitzgerald自身の作家としての姿勢とも深く関わっている可能性がある。彼は基本的に自己の体験を基にして作品を作り上げる自伝的傾向を持った作家であるが,特にTITN を出版した後の1934年と1936年に自伝的作品集の出版を試み,また雑誌Esquire に“The Crack-Up”を含む数々の自伝的エッセイを書くなど,1934年から1937年にかけて意識的に自伝的作品への傾倒を強めてゆく。そのように自伝的作品へ関心を寄せた背景には,職業の問題を通してFitzgeraldがTITN で新たな文学的可能性を見出した為と結論づけることができるだろう。
そこで本発表では,Dickの破滅の理由という問題に端を発し,Fitzgeraldの作家という職業への思いを明確にするとともに,TITN が,1934年から1937年にかけて彼が自伝的作品へ関心を強めてゆくきっかけになっていることを論証し,この時期のFitzgeraldの伝記からだけでは窺えない作家としての姿を明らかにしたい。
後藤 篤 大阪大学(院)
客観的な現実認識の不可能性を語るVladimir Nabokovにとって,現実は常に観察者の主観によって集められた暫定的な情報の際限ない奥行きとして存在している。ロシア語時代の回想を英語で語り直した自伝Speak, Memory: Autobiography Revisited (1967)は,こうした作家の現実認識の自己を対象とした実践として見なすことができる作品だ。複数の雑誌に発表された短編を纏めた形でConclusive Evidence: A Memoir (1951)のタイトルの下に出版された後,作者自身によるロシア語への翻訳(Drugie Berega, 1954)を経て再び英語に訳されたという改訂の経緯,そして一連のロシア語作品の英語版に付けられた序文や数々のインタビューでの発言と自伝の内容との補完関係は,作家の自伝行為が創作のジャンルと言語,そして細部に関する差異を含んだ自己表象の反復,いわば鍵括弧に入れられた「現実」としての“Vladimir Nabokov”を描く試みであったという事実を端的に示している。
自らが生きた「確証」の断片を記憶によって再構成するNabokovの自伝は,その生涯に秘められた主題的な意匠をテクスト上に散りばめられた「細部」の呼応として再現する。しかしながら,作者自身が指摘する作品の小説的な要素,すなわち文学芸術としての自伝テクストに織り込まれた「パターン」は,作者の言葉に虚構性を付与するという点において,“On a Book Entitled Lolita” (1956)の冒頭で述べられているような作家の自己表象の問題を喚起するものでもある。言い換えれば,自らの人生に隠された複雑な透かし模様を芸術という灯りを用いて浮かび上がらせるといった自伝におけるNabokovの手法それ自体が,作家が自らの最後の「現実」へとたどり着くことの妨げとなっているのではないだろうか。
本発表では,Speak, Memory における“Vladimir Sirin”に関する記述,そして架空の書評の体裁を取った第十六章に注目し,様々な形で変奏される「ガラス」の主題を手がかりとしながらNabokovの自己表象と現実認識に関する問題について論じていく。自身の家族や親類,そして祖国ロシアと亡命先のヨーロッパ諸国で出会った人々の「肖像」を描くと同時に,作者自身の「自画像」でもあるこの自伝において,「肖像(portrait)」から引き出された「筆致=特徴(trait)」(Jean-Luc Nancy),すなわちNabokovが言う文学的な創造の感覚が宿る「細部」がそれを引き出す作者自身に対して「裏切り(traitor)」となる様子を明らかにするとともに,約半世紀に渡って作家が取り組み続けた自伝行為が孕む誤謬,すなわち「語るNabokov」と「語られるNabokov」の関係性が持つパラドクスについての分析を試みたい。
真野貴世子 成蹊大学(院)
1958年初演のTennessee WilliamsのSuddenly Last Summer は,主に二人の女性が精神科医相手に,今は亡きホモセクシュアルの詩人Sebastian Venableについて語るという回想形式の一幕劇である。この作品が同性愛嫌悪を内在していることを半ば揺るぎない前提として,批評家たちはしばしばSebastianの「ホモセクシュアリティ」に倫理的な堕落,破滅,退廃を読み込む。確かに,故人という設定の為,舞台上に終始姿を見せることはないSebastianは,ホモセクシュアリティの「不在」を象徴していると容易に想像がつくし,劇の終盤でCatharine Hollyによって明かされる彼の悲惨な死——異国の飢えた少年たちによって文字通り貪り食われて死ぬ——はゲイバッシングの場面を想起させることからも,同性愛表現への抑圧/排除傾向の強まった1950年代のアメリカリアリズム演劇の例にもれず,劇空間における同性愛者の迫害/抹消という見方を助長していると言えなくもない。
しかし,Suddenly Last Summer を内面化した同性愛嫌悪の発露であると解釈するのは極めて皮相的である。本発表では「遺産相続」というモチーフに注目し,この劇の中で「ホモエロティックな(というよりはクィアな)欲望」が,紋切り型の異性愛/同性愛という二極化を退けつつ,且つその境界を攪乱しつつ,いかに肯定的に表象されているかを考察したい。
まず,この作品の主題はSebastianの死それ自体にではなく,彼の死によって発生する「遺産相続」をめぐる二つの家族間—Holly家とVenable家の抗争にこそあるのだということを補助線として出発する。「遺産」というモチーフは,財産継承を介した世代の存続,または親から子孫へと受け継がれる遺伝的な身体の類似を彷彿させることから,異性愛—および結婚制度と密接に結びついている。
だがSuddenly Last Summer において「遺産」は脱異性愛化される。というのも相続されるのは「ホモエロティックな欲望」であり,相続相手はSebastianの従妹Catharineという女性だからだ。Williamsは,短編小説 “The Mystery of the Joy Rio”(1954)の中で,ホモセクシュアリティの継承の印として,生物学的な再生産に頼らない相続人と被相続人との間の「後天的な身体,習慣等の類似」を挙げている。
CatharineはSebastianとの間に想像上の身体的類似を持つ。少年たちによって断片化され吸収されたSebastianの身体は,自己/他者の境界線が互いに浸透しあった身体のイメージを創り出す。このイメージを欲望する他者との甘美な「統合」——狭義の性行為における一体感を想起させる——であるとみなす時,同性同士のカニバリズム行為はホモエロティックな快楽の表象となる。 三人称で日記をつけ,注射針の穴だらけになった自らの身体を「人間スプリンクラー」に例えるCatharineの自己/他者の境界認識の曖昧さは,Sebastianと想像上の身体的類似を呈しているという意味で,遺産相続の成功の印であるといえる。最終的に,Catharineが最後まで舞台上に留まり,同性愛嫌悪を象徴するSebastianの母Violetが退場するという結末は,当時のリアリズム演劇の暗黙の慣習に反して「クィア性」の肯定だと結論付けることができるだろう。かくして世代間を越境する「遺産」はジェンダー間/セクシュアリティ間の越境のメタファーに変換される。
竹内 理矢 立教大学(非常勤)
Ernest Hemingwayのテクストに潜むジェンダーとセクシュアリティの攪乱をめぐる研究は,Mark Spilkaによる両性具有の検証やDebra Moddelmogによる同性愛の分析などの貢献もあり,丹念に包括的に行われてきた。第三長篇小説 A Farewell to Arms (1929)に関しては,軍隊における異性愛と同性愛の対立や,Frederic HenryとCatherine Barkleyの主体性の争いなどが指摘されてきた。そうした研究を踏まえながら,本発表は,ホモソーシャルな欲望の視座から,A Farewell to Arms を捉え直し,戦争体験に起因するジェンダーと性の役割にまつわるFredericの不安と緊張を再考する。
FredericとCatherineの恋愛は,たしかに出会いから永遠の離別にいたるまで異性愛関係を保っている。だが,軍隊体験は,従軍中だけでなく戦場から離れた市民社会においても,彼の異性愛男性としてのアイデンティティを揺るがし続けている。Stephen Cliffordは,Fredericのホモソーシャルな世界への傾倒とCatherineと共に暮らす決断との葛藤を論じているものの,ミランとスイスで彼女と至福の時を過ごしているときでさえ,伏流し見え隠れする彼のホモエロティックな欲望(男性との絆の思慕)に関して十分に追究していない。
ミランでの負傷休暇から前線に帰還する前夜,Fredericは,形而上派詩人Andrew Marvellの詩“To His Coy Mistress”の一節(“But at my back I always hear / Time’s winged chariot hurrying near”)を口ずさみ,差し迫った彼女との別れを惜しむ。しかし,Hemingwayはこの詩を愛読しており,この詩に対する彼の親和性の由来を考えるならば,詩に隠された「性的両義性」と「性的アイデンティティの反転」のモチーフこそ,彼を魅了した理由ではないかと推測できる。この詩を諳んずるとき,Fredericは,愛の讃歌とは裏腹に,自らのセクシュアリティの不決定性と,戦地でのホモソーシャルな欲望の回帰を暗示しているのではないか。
また,Catherineの最期を見届けた彼のフレーズ(“It was like saying good-by to a statue”)は,単に,語らないことで悲しみの深さを伝える作者の文体の一例として捉えるのでは不十分であろう。第六章の冒頭でFredericは,ギリシャ彫刻を軍隊の理想的な男らしさの表現と見ている。また,終章でCatherineの難産(宿命)と闘う様子を直視している。そうした点を念頭に置くならば,そのフレーズは,彼女の勇敢さに対する称賛でもあるが,しかし称賛しておきながら,彼は別れを告げる。従軍中,牧師の故郷アブルッツィ(狩猟の世界)に訪れることを願っていた事実を思い起こすならば,彼女の死後,彼はアブルッツィに滞在し,軍功をあげることこそ男の名誉とする社会的通念から距離を置き,また,男女の成熟した恋愛と女や子供に対する責任から自らを切り離したと読めるのではないか。とすれば,そうした彼の絶え間ないジェンダーとセクシュアリティの流動性は,異性愛の物語としての従来の解釈の枠組みに揺さぶりをかけ,戦地を体験した男の性がどれほど不安定であり続けるのかを問い直す視座を提示しているのではないだろうか。