真野貴世子 成蹊大学(院)
1958年初演のTennessee WilliamsのSuddenly Last Summer は,主に二人の女性が精神科医相手に,今は亡きホモセクシュアルの詩人Sebastian Venableについて語るという回想形式の一幕劇である。この作品が同性愛嫌悪を内在していることを半ば揺るぎない前提として,批評家たちはしばしばSebastianの「ホモセクシュアリティ」に倫理的な堕落,破滅,退廃を読み込む。確かに,故人という設定の為,舞台上に終始姿を見せることはないSebastianは,ホモセクシュアリティの「不在」を象徴していると容易に想像がつくし,劇の終盤でCatharine Hollyによって明かされる彼の悲惨な死——異国の飢えた少年たちによって文字通り貪り食われて死ぬ——はゲイバッシングの場面を想起させることからも,同性愛表現への抑圧/排除傾向の強まった1950年代のアメリカリアリズム演劇の例にもれず,劇空間における同性愛者の迫害/抹消という見方を助長していると言えなくもない。
しかし,Suddenly Last Summer を内面化した同性愛嫌悪の発露であると解釈するのは極めて皮相的である。本発表では「遺産相続」というモチーフに注目し,この劇の中で「ホモエロティックな(というよりはクィアな)欲望」が,紋切り型の異性愛/同性愛という二極化を退けつつ,且つその境界を攪乱しつつ,いかに肯定的に表象されているかを考察したい。
まず,この作品の主題はSebastianの死それ自体にではなく,彼の死によって発生する「遺産相続」をめぐる二つの家族間—Holly家とVenable家の抗争にこそあるのだということを補助線として出発する。「遺産」というモチーフは,財産継承を介した世代の存続,または親から子孫へと受け継がれる遺伝的な身体の類似を彷彿させることから,異性愛—および結婚制度と密接に結びついている。
だがSuddenly Last Summer において「遺産」は脱異性愛化される。というのも相続されるのは「ホモエロティックな欲望」であり,相続相手はSebastianの従妹Catharineという女性だからだ。Williamsは,短編小説 “The Mystery of the Joy Rio”(1954)の中で,ホモセクシュアリティの継承の印として,生物学的な再生産に頼らない相続人と被相続人との間の「後天的な身体,習慣等の類似」を挙げている。
CatharineはSebastianとの間に想像上の身体的類似を持つ。少年たちによって断片化され吸収されたSebastianの身体は,自己/他者の境界線が互いに浸透しあった身体のイメージを創り出す。このイメージを欲望する他者との甘美な「統合」——狭義の性行為における一体感を想起させる——であるとみなす時,同性同士のカニバリズム行為はホモエロティックな快楽の表象となる。 三人称で日記をつけ,注射針の穴だらけになった自らの身体を「人間スプリンクラー」に例えるCatharineの自己/他者の境界認識の曖昧さは,Sebastianと想像上の身体的類似を呈しているという意味で,遺産相続の成功の印であるといえる。最終的に,Catharineが最後まで舞台上に留まり,同性愛嫌悪を象徴するSebastianの母Violetが退場するという結末は,当時のリアリズム演劇の暗黙の慣習に反して「クィア性」の肯定だと結論付けることができるだろう。かくして世代間を越境する「遺産」はジェンダー間/セクシュアリティ間の越境のメタファーに変換される。