後藤 篤 大阪大学(院)
客観的な現実認識の不可能性を語るVladimir Nabokovにとって,現実は常に観察者の主観によって集められた暫定的な情報の際限ない奥行きとして存在している。ロシア語時代の回想を英語で語り直した自伝Speak, Memory: Autobiography Revisited (1967)は,こうした作家の現実認識の自己を対象とした実践として見なすことができる作品だ。複数の雑誌に発表された短編を纏めた形でConclusive Evidence: A Memoir (1951)のタイトルの下に出版された後,作者自身によるロシア語への翻訳(Drugie Berega, 1954)を経て再び英語に訳されたという改訂の経緯,そして一連のロシア語作品の英語版に付けられた序文や数々のインタビューでの発言と自伝の内容との補完関係は,作家の自伝行為が創作のジャンルと言語,そして細部に関する差異を含んだ自己表象の反復,いわば鍵括弧に入れられた「現実」としての“Vladimir Nabokov”を描く試みであったという事実を端的に示している。
自らが生きた「確証」の断片を記憶によって再構成するNabokovの自伝は,その生涯に秘められた主題的な意匠をテクスト上に散りばめられた「細部」の呼応として再現する。しかしながら,作者自身が指摘する作品の小説的な要素,すなわち文学芸術としての自伝テクストに織り込まれた「パターン」は,作者の言葉に虚構性を付与するという点において,“On a Book Entitled Lolita” (1956)の冒頭で述べられているような作家の自己表象の問題を喚起するものでもある。言い換えれば,自らの人生に隠された複雑な透かし模様を芸術という灯りを用いて浮かび上がらせるといった自伝におけるNabokovの手法それ自体が,作家が自らの最後の「現実」へとたどり着くことの妨げとなっているのではないだろうか。
本発表では,Speak, Memory における“Vladimir Sirin”に関する記述,そして架空の書評の体裁を取った第十六章に注目し,様々な形で変奏される「ガラス」の主題を手がかりとしながらNabokovの自己表象と現実認識に関する問題について論じていく。自身の家族や親類,そして祖国ロシアと亡命先のヨーロッパ諸国で出会った人々の「肖像」を描くと同時に,作者自身の「自画像」でもあるこの自伝において,「肖像(portrait)」から引き出された「筆致=特徴(trait)」(Jean-Luc Nancy),すなわちNabokovが言う文学的な創造の感覚が宿る「細部」がそれを引き出す作者自身に対して「裏切り(traitor)」となる様子を明らかにするとともに,約半世紀に渡って作家が取り組み続けた自伝行為が孕む誤謬,すなわち「語るNabokov」と「語られるNabokov」の関係性が持つパラドクスについての分析を試みたい。