竹内 理矢 立教大学(非常勤)
Ernest Hemingwayのテクストに潜むジェンダーとセクシュアリティの攪乱をめぐる研究は,Mark Spilkaによる両性具有の検証やDebra Moddelmogによる同性愛の分析などの貢献もあり,丹念に包括的に行われてきた。第三長篇小説 A Farewell to Arms (1929)に関しては,軍隊における異性愛と同性愛の対立や,Frederic HenryとCatherine Barkleyの主体性の争いなどが指摘されてきた。そうした研究を踏まえながら,本発表は,ホモソーシャルな欲望の視座から,A Farewell to Arms を捉え直し,戦争体験に起因するジェンダーと性の役割にまつわるFredericの不安と緊張を再考する。
FredericとCatherineの恋愛は,たしかに出会いから永遠の離別にいたるまで異性愛関係を保っている。だが,軍隊体験は,従軍中だけでなく戦場から離れた市民社会においても,彼の異性愛男性としてのアイデンティティを揺るがし続けている。Stephen Cliffordは,Fredericのホモソーシャルな世界への傾倒とCatherineと共に暮らす決断との葛藤を論じているものの,ミランとスイスで彼女と至福の時を過ごしているときでさえ,伏流し見え隠れする彼のホモエロティックな欲望(男性との絆の思慕)に関して十分に追究していない。
ミランでの負傷休暇から前線に帰還する前夜,Fredericは,形而上派詩人Andrew Marvellの詩“To His Coy Mistress”の一節(“But at my back I always hear / Time’s winged chariot hurrying near”)を口ずさみ,差し迫った彼女との別れを惜しむ。しかし,Hemingwayはこの詩を愛読しており,この詩に対する彼の親和性の由来を考えるならば,詩に隠された「性的両義性」と「性的アイデンティティの反転」のモチーフこそ,彼を魅了した理由ではないかと推測できる。この詩を諳んずるとき,Fredericは,愛の讃歌とは裏腹に,自らのセクシュアリティの不決定性と,戦地でのホモソーシャルな欲望の回帰を暗示しているのではないか。
また,Catherineの最期を見届けた彼のフレーズ(“It was like saying good-by to a statue”)は,単に,語らないことで悲しみの深さを伝える作者の文体の一例として捉えるのでは不十分であろう。第六章の冒頭でFredericは,ギリシャ彫刻を軍隊の理想的な男らしさの表現と見ている。また,終章でCatherineの難産(宿命)と闘う様子を直視している。そうした点を念頭に置くならば,そのフレーズは,彼女の勇敢さに対する称賛でもあるが,しかし称賛しておきながら,彼は別れを告げる。従軍中,牧師の故郷アブルッツィ(狩猟の世界)に訪れることを願っていた事実を思い起こすならば,彼女の死後,彼はアブルッツィに滞在し,軍功をあげることこそ男の名誉とする社会的通念から距離を置き,また,男女の成熟した恋愛と女や子供に対する責任から自らを切り離したと読めるのではないか。とすれば,そうした彼の絶え間ないジェンダーとセクシュアリティの流動性は,異性愛の物語としての従来の解釈の枠組みに揺さぶりをかけ,戦地を体験した男の性がどれほど不安定であり続けるのかを問い直す視座を提示しているのではないだろうか。