1. 全国大会
  2. 第50回 全国大会
  3. <第1日> 10月8日(土)
  4. 第7室(A404教室)

第7室(A404教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
 

1.セッションなし

ウェルズ恵子

2.Whitmanの「大草原」表象——エクスパンショニズムからリージョナリズムへ

  関根 路代 : 獨協大学(院)

別府 恵子

3.言いたいことのない詩人 — ウォレス・スティーヴンズの後期作品

  阿部 公彦 : 東京大学

4.G. スナイダーの後期の詩——空なる自然、無の超絶公案——

  高市順一郎 : 桜美林大学(名誉教授)



関根 路代 獨協大学(院)

 

19世紀アメリカは「フロンティア」の開拓とともにあり、Walt Whitman (1819-92)にとっても「フロンティア」は重要な意味を持つ。これまでの議論にあるように、Leaves of Grass (1892) には、開拓者の物語や領土を拡大するアメリカそのものが書かれているといえる。そこには、19世紀アメリカが内在していた帝国主義的要素を見ることができ、西漸運動を書いた作品には、男たちの物語が採用されているといえる。批判されるWhitman像がある。

本発表の目的は、Whitman の「大草原」表象を再考することにある。「大草原」もまた、フロンティアの開拓との関連で書かれており、当時の記録のひとつになっている。しかしそれは、フロンティアの開拓を肯定する立場からではなく、批判する立場から書かれているといえる。この主題については、Ed Folsomがすでに詳細に検証している。Folsomは、Whitmanの「大草原」は「デモクラシー」と結びつき、雑多なものを含みながら方向性を失った「若きアメリカ」そのものを描き出しているという。この結論は注目に値し、発表者も賛同する。しかしそれは、「デモクラシー」に固執した見解といえ、これまでのWhitman像を崩すものではない。

Whitmanは1879年9月から翌80年の1月まで西部を旅行しており、その時のことをSpecimen Days (1882)に記している。実際に「大草原」を目の前にして、「大草原」が連邦国家アメリカにとって、またその芸術にとって有益な場所であるということが語られている。「大草原」はアメリカの産業を支える重要な農業用地として書かれている。また、「大草原」がアメリカに固有な自然の風景であることが語られ、アメリカの芸術家は、ヨーロッパの伝統的な芸術様式を追うのではなく、まず第一に「大草原」を書くべきだという。この2点を見ると、Folsomが言うように、Whitmanの書く「大草原」は、アメリカ大陸の自然にヨーロッパとは違うアメリカのオリジナリティーを見いだそうとした、「若きアメリカ」そのものを表しているといえる。しかし、Whitmanは「大草原」に代表されるアメリカの自然を、開拓され、征服されるべき場所とは見ていない。『自選日記』には、ただ資源だけを追い求め、都市を拡大していくアメリカへのアイロニカルな視線を見ることができる。土地の性質を知り、自然と共に生きることが促されている。それは、Henry David Thoreau (1817-62)と通じるものがあり、リージョナリズムへと繋がるものと想定できる。本発表では、『草の葉』に収められた詩と他の散文作品を比較しつつ、Whitmanの「大草原」表象を検証する。


阿部 公彦 東京大学

 

「書く人」には何か言いたいことがある——私たちはついそうした見方をとりがちだ。おそらく詩の場合、〝内面の表出〟こそが詩作の中心的な動機となるというロマン派以来の考え方もあり、そういう見方がジャンルとしても強力に根づいてきた。しかし、実情はもっと複雑である。20世紀になると「自分には何も言いたいことがない」という意識と向き合うことでこそ詩を書く詩人が増えてきた。たとえばT. S. EliotのImpersonalityという概念は明らかにそうした時代の潮流をとらえたものだろう。

今回とりあげるのはWallace Stevensである。Stevensは日常生活の中でもたいへん無口で、奥さんとは何十年にもわたってほとんど会話がなかったらしい(単に夫婦仲が悪かったという説もあるが)。とくにStevensの後期の作品は、前期の作品で用いられたモチーフやイメージをゆるく繰り返すだけに見えるものが多く、人によっては「ネタ切れ」という印象を持つかもしれないし、「いったいなぜこの人はそれでも詩を書くのか?」という疑問が生まれてくるのもまったく自然である。

しかし、興味深いのはそうした「もう言いたいことはない」「書くことはない」という身振りを通してこそ表現される何かがあるらしいということである。文学表現とは必ずしも腹に抱え持った何かを、これでもか、これでもか、とこちらに押しつけるだけのものではない——もっと別の機能を持ちうるものなのではないか。Stevens後期の作品を丁寧に読んでいくとそんな見方をとりたくなってくる。

今回の発表では、Stevens後期作品でも最晩年に書かれたもののひとつである“The Rock”をとりあげ、「何も言いたいことがない」という一見身も蓋もない出発点からどのようにして詩が紡がれるのかについて、あらためて考えてみたいと思っている。“The Rock”に読めるのは、おそらく言葉の豊穣さであるよりも言葉の貧しさであり欠如であり喪失である。そのような詩がいったい何をやろうとしているのかを見極めることで、Stevensに限らず、さまざまな現代詩を読むためのヒントも得られるのではないかと思っている。


高市順一郎 桜美林大学(名誉教授)

 

Gary Snyderの詩は、1.秘蹟としての真言詩、(1)『亀の島』Turtle Island—〈歩く観想〉:秘儀真言、(2)『斧の柄』Axe Handles—〈空なる自然〉:場の瞑想詩、2.詩の超絶公案、(1)『果てしなき山河』Mountains and Rivers Without End—〈禅は美学に非ず〉:〈偈〉の詩、(2)『頂上の危険』Danger of Peaks—〈無の超説〉:禅公案は超説ならず、の四部面から成ると見られる。

本発表では、次の要点について述べる。

1‐(1)Snyderはエッセイ集『真の仕事』The Real Work (1980)の中で、1969年日本での禅修行を止め、アメリカに帰り、「山中瞑想歩行」を続け、「詩」を全く忘れ去った後、突然「良い詩」を書き始めたことを記している。これは、詩には二つの次元 —〈歩く=観る〉コンテクストとその上に立つ〈坐す=思念する〉コンテクストがあることを、示している。

作品としての詩の世界は、二重の構造 — 木、鳥、動物などの集合的エネルギーのBiomass〈生物総体〉ないしEcosystem〈生態系〉としての〈自然〉=“The Wild”〈野生的なもの〉、そしてユング的なサブ意識の〈裏の世界〉あるいは神話的で神秘的な内的パワーにかかわる〈シャマニズム的〉な“The Esoteric”〈秘儀的なもの〉— の二つから成っている。その間を撃ぎ、表現するのが「歌」、「マントラ真言」「スートラ(経文)」、そして「言語」である。

1‐(2) No Nature (1992)は、『斧の柄』(1983)と、それ以前の代表作品を再録しているが、この表題は西欧四大元素の上にインド=中国のタントリズムの第五のSky〈空〉を置き、第六の禅的な心の磁場=Mind〈こころ〉から観ての「虚であるが真実であるDao〈道〉ないしWay of Great Nature〈大自然〉」の意味をこめての〈空なる自然〉の意を表わすものと思われる。

2‐(1)1956年来40年間に亘る禅叙事連作詩篇『果てしなき山河』(1996)は、『真の仕事』で示した逆説「禅は美学に非ず」、即ち「禅は詩ではない」と、最後のエッセイ集The Practice of the Wild『野生の実践』(1990)の「詩は〈開かれた場〉“Field”での実践である」、即ち「〈歩くこと〉は〈第一の瞑想=心の実践“heartiness”〉である」との原理を合わせた禅体現の黙示録であるといえよう。

道元の『正法眼蔵』の「山河経」や中国の禅師からの公案〈偈〉が詩のテーゼとして多々織り込まれているが、日本の漢文訳『観音経』や『法華経』の、世尊直々に法を説き、救いの道を唱える五言偈(=詩)の方が遥かに詩らしい響きを放っているように思える。

2‐(2) 最新詩集『頂上の危険』(2004)は、アメリカ西部の四つの高峰に上る登攀の主題を主に、長い〈歩く〉散文テクストを元に、〈思念する〉禅公案的な〈昇化〉の命題を最後に抽出、添加しようとする野心作に見える。が、詩の世界知、奥義の頂点に立とうとする自負は、聖杯探求騎士として〈危険の席〉を冒すのと同じ、神への冒涜【編集注記 涜は正字に変える】にあたり、自らの超絶公案なく借物の禅公案で超説詩を打ち立てようとする発想自体、〈無の超説〉、詩の〈無〉を逆証明したに過ぎなく思われる。

Snyderの霊知の超説らしき明察を語り、証言する呪言の宣明詩は、『波を見つめて』 Regarding the Waves(1970)の表題詩や「革命の中の革命の中の革命」などに予見されていた。