高市順一郎 桜美林大学(名誉教授)
Gary Snyderの詩は、1.秘蹟としての真言詩、(1)『亀の島』Turtle Island—〈歩く観想〉:秘儀真言、(2)『斧の柄』Axe Handles—〈空なる自然〉:場の瞑想詩、2.詩の超絶公案、(1)『果てしなき山河』Mountains and Rivers Without End—〈禅は美学に非ず〉:〈偈〉の詩、(2)『頂上の危険』Danger of Peaks—〈無の超説〉:禅公案は超説ならず、の四部面から成ると見られる。
本発表では、次の要点について述べる。
1‐(1)Snyderはエッセイ集『真の仕事』The Real Work (1980)の中で、1969年日本での禅修行を止め、アメリカに帰り、「山中瞑想歩行」を続け、「詩」を全く忘れ去った後、突然「良い詩」を書き始めたことを記している。これは、詩には二つの次元 —〈歩く=観る〉コンテクストとその上に立つ〈坐す=思念する〉コンテクストがあることを、示している。
作品としての詩の世界は、二重の構造 — 木、鳥、動物などの集合的エネルギーのBiomass〈生物総体〉ないしEcosystem〈生態系〉としての〈自然〉=“The Wild”〈野生的なもの〉、そしてユング的なサブ意識の〈裏の世界〉あるいは神話的で神秘的な内的パワーにかかわる〈シャマニズム的〉な“The Esoteric”〈秘儀的なもの〉— の二つから成っている。その間を撃ぎ、表現するのが「歌」、「マントラ真言」「スートラ(経文)」、そして「言語」である。
1‐(2) No Nature (1992)は、『斧の柄』(1983)と、それ以前の代表作品を再録しているが、この表題は西欧四大元素の上にインド=中国のタントリズムの第五のSky〈空〉を置き、第六の禅的な心の磁場=Mind〈こころ〉から観ての「虚であるが真実であるDao〈道〉ないしWay of Great Nature〈大自然〉」の意味をこめての〈空なる自然〉の意を表わすものと思われる。
2‐(1)1956年来40年間に亘る禅叙事連作詩篇『果てしなき山河』(1996)は、『真の仕事』で示した逆説「禅は美学に非ず」、即ち「禅は詩ではない」と、最後のエッセイ集The Practice of the Wild『野生の実践』(1990)の「詩は〈開かれた場〉“Field”での実践である」、即ち「〈歩くこと〉は〈第一の瞑想=心の実践“heartiness”〉である」との原理を合わせた禅体現の黙示録であるといえよう。
道元の『正法眼蔵』の「山河経」や中国の禅師からの公案〈偈〉が詩のテーゼとして多々織り込まれているが、日本の漢文訳『観音経』や『法華経』の、世尊直々に法を説き、救いの道を唱える五言偈(=詩)の方が遥かに詩らしい響きを放っているように思える。
2‐(2) 最新詩集『頂上の危険』(2004)は、アメリカ西部の四つの高峰に上る登攀の主題を主に、長い〈歩く〉散文テクストを元に、〈思念する〉禅公案的な〈昇化〉の命題を最後に抽出、添加しようとする野心作に見える。が、詩の世界知、奥義の頂点に立とうとする自負は、聖杯探求騎士として〈危険の席〉を冒すのと同じ、神への冒涜【編集注記 涜は正字に変える】にあたり、自らの超絶公案なく借物の禅公案で超説詩を打ち立てようとする発想自体、〈無の超説〉、詩の〈無〉を逆証明したに過ぎなく思われる。
Snyderの霊知の超説らしき明察を語り、証言する呪言の宣明詩は、『波を見つめて』 Regarding the Waves(1970)の表題詩や「革命の中の革命の中の革命」などに予見されていた。