開始時刻 |
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司会 | 内容 |
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1.セッションなし |
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城戸 光世 |
2.The House of the Seven Gablesにみられる空気の停滞と流動のモチーフ 田島 優子 : 九州大学(院) |
武田 悠一 |
3.The Marble Faunを読む−「許されざる罪人」たちの行方 久保 清香 : 鶴見大学(非常勤) |
4.自らがテロリストである可能性——N.ホーソーン「総督官邸に伝わる物語」における暴力と恐怖 下河辺美知子 : 成蹊大学 |
田島 優子 九州大学(院)
Nathaniel HawthorneのThe House of the Seven Gablesは、これまでPhoebeとHolgraveの婚約を契機としたPyncheonとMaule両家の和解、貴族社会に代わるデモクラシーの台頭、Hepzibahのセントショップ経営に投影される作家Hawthorne自身の資本主義社会への参入といった観点から論じられることが多かったように思われる。Pyncheon家の屋敷がHepzibahを始めとする登場人物を社会から隔絶していることは明白であるが、本発表において注目したいのは外界と隔てられた「家」そのものというよりも、むしろ家と外界との「境界」である。窓や扉の開閉によってもたらされる空気の流れ、あるいは外気の屋内への侵入のイメージは、この作品の随所に見られる。例えば再三にわたり言及される屋敷内の埃臭さやかび臭さは、窓を開けて室内の換気をするという習慣がHepzibahになかったということを含意している。屋敷に居候することになるPhoebeは、Hepzibahとは対照的に家庭的資質を備えており、家具の間取りを変えたりHepzibahや病人のCliffordを屋外へ連れ出したりすることで家庭内に健康で清浄な空気を補給する点でも才覚をふるっている。また作品冒頭で金銭を稼ぐためにセントショップを開く場面では、Hepzibahは客の少年が店のドア(つまり外気の入り口)を閉め忘れて出て行ったことに不快感を覚える。その一方で、屈辱を感じながらも成し遂げた開店への彼女の歓喜は、「単調な隠遁生活のあとにやってきた清浄な外気の爽快な息吹き」と表現される。また屋敷に招かれた町の人々が椅子に座ったまま死亡しているPyncheon大佐を発見する場面では、奇妙にも突風によって部屋の扉が開け放たれる。この直後に語り手は死神がPyncheon家に侵入してきたことを告げるのだが、これはまるで前述の突風こそが死神の訪れであったかのような印象を与えている。このように、The House of the Seven Gablesにおいてプロットの転換点となるような重要な場面の多くは、屋敷内で長い間滞留していた空気が、開け放たれた窓やドアを通して流れ始めるという比喩によって描かれていくのである。
本発表では、The House of the Seven Gablesに示される物理的な空気の流れに着目し、Pyncheon一族の人々が、気流や香り、ドアの開閉といった空気の動きに常に目を配り、それを時には血筋を守る手段としてそれぞれが独自の方法で利用してきたことを明らかにする。そして作家Hawthorneが空気の循環をどのようなものとして捉え、作中に組み込んでいたのかを考察していくことによって、この作品に関する新たな解釈を導き出していきたい。
久保 清香 鶴見大学(非常勤)
Nathaniel HawthorneのThe Marble Faun (1860)に登場する“Model”の存在は、従来の研究ではあまり重要視されていないように思われる。ModelはMiriamに付きまとい、彼女を慕うDonatelloによって殺される。その後Modelは役目を終えたかのように物語から早々に姿を消してしまうため、Modelの役割は、Donatelloが変身を遂げる契機に過ぎないと考えるのは至極当然である。
しかし、過去にMiriamと共同で罪を犯したとされるModelは「許されざる罪人」に相当するはずであるが、“The Birth-mark”(1843)のAylmerやThe Scarlet Letter (1850)のChillingworthのように物語の中枢をなしていないのはなぜだろうか。この時点で我々は、Modelの存在意義を改めて解釈し直す必要があるようだ。そこで本発表では、対極的な人物として描かれているDonatelloとModelの類似性を見出し、DonatelloにおけるModelの「死」の意味を探っていく。作者のキーワードである光と闇、現在と過去、鏡等をあわせて考察していくと、両者の新たな関係が浮かび上がる。この分析を通じて発表者は、Modelは「死んだ」というよりも、Donatelloに「同化している」と考える方が妥当であることを指摘する。かねてからHawthorneは出来事よりもその結果の方を問題視してきた作家であり、この意味でもModelの存在は殺害された後の方が大きいと言える。DonatelloがMiriamと一体感を増していくのは、共犯者という理由だけでなく、Modelが体現する過去の罪を担っているからだということを明らかにしたい。
だとすれば、DonatelloはMiriamやModelと共に最も「許されざる罪人」ではないだろうか。また、作者自身も同じ「許されざる罪人」であることを忘れてはならない。これまでの作品の中ではの行き過ぎを防ごうとしてきた。しかし、本作品においてはその姿勢が揺らいでいる。確かに、KenyonはHildaという伴侶を得てアメリカへ戻るが、DonatelloとMiriamはヨーロッパに留まるため、に歯止めをかけられないからである。このように、アメリカ対ヨーロッパ、現在と過去という構図を下敷きにした結末には、との拮抗が反映されていると考えられる。発表者は、他作品で罪を犯したキャラクター達との比較をしながら、DonatelloとMiriamの運命が暗いものではないことを示唆する。最終的にがによる規制を回避し、最も解放された状況にあることを明確にしたい。その時初めて、The Marble Faunが作者の晩年に執筆され、完成した最後の作品であることの重要性が理解され、Modelの重要性も明らかとなる。
下河辺美知子 成蹊大学
暴力と恐怖の問題は、共同体および国家の在り方にとって根源的テーマの一つである。暴力が行われて恐怖が発生する。我々はこう考えるが、精神分析の知見を借りるとき、まだ行われていない暴力を心理的に先取りすることで生じた恐怖が、受動的状況をのがれるための暴力へ変換される可能性が見えてくる。アメリカ国家における暴力と恐怖をこうした見地から考えてみたい。内外の他者を「敵」とみなして歴史を刻んできたアメリカは、共同体の統一を乱し国家にたいする暴力を行うテロリストは殲滅されるべきと唱えてきた。しかし、一方で、英本国に対する反抗の気運を高めて独立を求めることこそテロであると言うこともできる。アメリカ文学は文化の深層にあるこの懸念をどのように扱ってきたのであろうか。
Nathaniel Hawthorneの “Legends of the Province-House” (「総督官邸に伝わる物語」) は、独立戦争時のマサチューセッツ総督館邸を舞台に、新世界アメリカと旧世界イギリスとが主権を争奪しあう様子を語ったものである。植民地を支配する総督には、植民地人たちによって選出された初期ピューリタン総督と、植民地を直接に統括するため英本国が送りこんだ勅任総督の二つがあり、植民地側の人間にとってその意味は全く異なっている。英本国の支配に対し、植民地側はどのように反抗を露わにしていったのか。「総督邸に伝わる物語」を構成する四つの物語の中から「恐怖」について言及されている部分を分析し、暴力を行ったのは英本国(王党派)なのか植民地側なのか、恐怖はどちら側にあるのかという問題を考えてみる。
第二話 “Edward Randolph’s Portrait” (「エドワード・ランドルフの肖像画」) では、独立戦争前夜、植民地側を英本国に売り渡すためイギリス軍のボストン進駐を許可する命令書を前にしたハッチンソン副総督の姿が描かれている。心の迷いを振り切ってペンを持ち署名しようとする彼の目に入ってきたのは、壁にかかった肖像画の「地獄の恐怖の表情」であった。それは、以前、勅任状破棄を推進し植民地への王権支配を強化したエドワード・ランドルフの絵であった。時代を隔てて植民地抑圧を行う二人の人物の中に恐怖の感情が共鳴する。このように、ここでは英本国側の人間の顔に恐怖が浮かび上がっているが、一方で、植民地側は恐怖からのがれているのであろうか?
本発表では、脅す側の恐怖を目撃する植民地側の心の中にこそ、内なる恐怖が潜在するのではないかという仮説を検証したい。英本国内部にあって独立を求めて暴力行為におよんだアメリカ側には、テロリストたちを暴力行為に駆り立てる激情へのひそやかな予感・共感が潜んでいるのではないか。自由・平等というメッセージを全世界へ発信し続けるアメリカにとって、自分たちがテロリストである可能性を打ち消し続けることが国家的営みであったと言えよう。独立戦争を扱ったホーソーンのテクストを分析することにより、アメリカ国家における恐怖と暴力のダイナミズムについての新たなる洞察をさぐりたい。