下河辺美知子 成蹊大学
暴力と恐怖の問題は、共同体および国家の在り方にとって根源的テーマの一つである。暴力が行われて恐怖が発生する。我々はこう考えるが、精神分析の知見を借りるとき、まだ行われていない暴力を心理的に先取りすることで生じた恐怖が、受動的状況をのがれるための暴力へ変換される可能性が見えてくる。アメリカ国家における暴力と恐怖をこうした見地から考えてみたい。内外の他者を「敵」とみなして歴史を刻んできたアメリカは、共同体の統一を乱し国家にたいする暴力を行うテロリストは殲滅されるべきと唱えてきた。しかし、一方で、英本国に対する反抗の気運を高めて独立を求めることこそテロであると言うこともできる。アメリカ文学は文化の深層にあるこの懸念をどのように扱ってきたのであろうか。
Nathaniel Hawthorneの “Legends of the Province-House” (「総督官邸に伝わる物語」) は、独立戦争時のマサチューセッツ総督館邸を舞台に、新世界アメリカと旧世界イギリスとが主権を争奪しあう様子を語ったものである。植民地を支配する総督には、植民地人たちによって選出された初期ピューリタン総督と、植民地を直接に統括するため英本国が送りこんだ勅任総督の二つがあり、植民地側の人間にとってその意味は全く異なっている。英本国の支配に対し、植民地側はどのように反抗を露わにしていったのか。「総督邸に伝わる物語」を構成する四つの物語の中から「恐怖」について言及されている部分を分析し、暴力を行ったのは英本国(王党派)なのか植民地側なのか、恐怖はどちら側にあるのかという問題を考えてみる。
第二話 “Edward Randolph’s Portrait” (「エドワード・ランドルフの肖像画」) では、独立戦争前夜、植民地側を英本国に売り渡すためイギリス軍のボストン進駐を許可する命令書を前にしたハッチンソン副総督の姿が描かれている。心の迷いを振り切ってペンを持ち署名しようとする彼の目に入ってきたのは、壁にかかった肖像画の「地獄の恐怖の表情」であった。それは、以前、勅任状破棄を推進し植民地への王権支配を強化したエドワード・ランドルフの絵であった。時代を隔てて植民地抑圧を行う二人の人物の中に恐怖の感情が共鳴する。このように、ここでは英本国側の人間の顔に恐怖が浮かび上がっているが、一方で、植民地側は恐怖からのがれているのであろうか?
本発表では、脅す側の恐怖を目撃する植民地側の心の中にこそ、内なる恐怖が潜在するのではないかという仮説を検証したい。英本国内部にあって独立を求めて暴力行為におよんだアメリカ側には、テロリストたちを暴力行為に駆り立てる激情へのひそやかな予感・共感が潜んでいるのではないか。自由・平等というメッセージを全世界へ発信し続けるアメリカにとって、自分たちがテロリストである可能性を打ち消し続けることが国家的営みであったと言えよう。独立戦争を扱ったホーソーンのテクストを分析することにより、アメリカ国家における恐怖と暴力のダイナミズムについての新たなる洞察をさぐりたい。