音楽を通して読む<前衛>のアメリカ
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アメリカの様々な文化の中でも、音楽は、その代表であると同時に、もっとも重要なものの一つである。おもに英語圏の北米に限っても、時代や国境を越えたその波及的な影響力は計り知れない。ことによれば、文学、映画、社会など、ありとあらゆる文化的事象を音楽から論じることもできるだろう。そこでこのシンポジウムでは、おもに20世紀後半のアメリカの音楽に焦点を当てる。なかでも、世界的な規模で普及していくアメリカ産のポピュラー文化の背後で、ときにはその流行と共謀しながら展開された実験的な音楽を通して見えてくるアメリカの<前衛>を読み解いてみたい。
愛知教育大学久野 陽一
ロック界でも比べられる者がなかなか見つからない鬼才と言えばフランク・ザッパ(Frank Zappa, 1940-1993)である。彼が自分のバンド、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション(The Mothers of Invention)を率いてデビュー・アルバム『フリーク・アウト!』(Freak Out! )を発表したのは1966年7月のことだった。プロデュースはボブ・ディランとの仕事でも知られる黒人プロデューサー、トム・ウィルソン。当時ザッパが活動の拠点としていたアメリカ西海岸では今まさにサイケデリック・ロックやフラワー・ムーヴメントがブームとなろうとしている時代である。ロック史上の最初の2枚組アルバムとも言われるこの作品が描く世界は、しかし、およそ流行のヒッピー文化とは異なるもので、ドラッグによる陶酔や幻想とは真逆の(ザッパは大のドラッグ嫌いとしても知られている)冷ややかな理性による諷刺や批判の目が、とんでもなくばかばかしいナンセンスな歌詞をともなって、そこかしこにかいま見られるものであった。また音楽的にも、当時の基本的なフォーマットになっていたフォーク・ロックやブルース・ロックに加えて、R&B(ザッパはドゥーワップのコレクターとしても知られている)やジャズ、とりわけ実験的な前衛音楽(若き日のザッパのヒーローはヴァレーズとストラヴィンスキーだった)が融合したきわめて特異なパッチワークであった。
『フリーク・アウト!』の一曲目で “Mr. America” に呼びかけたときから、彼の楽曲では、さまざまな形でアメリカが歌われてきた。ただし彼の描くアメリカはつねに "ugly" で “bizarre”(一時期のザッパのレコード・レーベル名)であった。亡くなるまでに膨大な作品を残したザッパだが、ここではおもに60年代の作品、『フリーク・アウト!』、1967年に発表された2作目『アブソリュートリー・フリー』(Absolutely Free)、1968年の『ウィアー・オンリー・イン・イット・フォー・ザ・マネー』(We're Only in It for the Money;前年に発表されたビートルズ『サージェント・ペパーズ』のアルバム・ジャケットのパロディでも知られる)あたりを取り上げて、彼の抽出する “bizarre” なアメリカの姿を見ていきたい。
椙山女学園大学長澤 唯史
芸術的前衛は、つねに政治的前衛である。20世紀の前衛は資本主義システムを支えるブルジョア的価値観と、その内部で芸術を商品化する文化産業をいかに脱臼させるかという戦いであった。資本とメディアの共謀関係への抵抗戦略である「アヴァン・ポップ」ももちろん、この意味での「前衛」運動である。
「80年代までの「俗流ポストモダン」ともいうべき安易な相対主義は、結果的に無責任と無根拠への居直りを助長し、その後のネオリベラリズムと市場原理主義という抑圧的システムの形成へと加担してしまった。本来は抵抗文化として誕生したはずのポップカルチャーも、今では抵抗の「ポーズ」を売り物にし、資本とメディアにとって不可欠の商品となっている。資本主義による芸術の商品化とメディアによる意識形成への疑問が、アヴァン・ポップの出発点である」かつて私は笙野頼子を論じながら、ラリイ・マキャフリイのアヴァン・ポップをこのように定義したが、今にして思えば、そこでは「永遠の抵抗的思想」とでも呼ぶべき60年代的価値観が根底に横たわっていることを、十分に論じるには至っていなかった。さらに言えば、アヴァン・ポップはその「60年代」がすっかり骨抜きにされ空虚なイディオムと化した80年代に、それでもかつての理想の、可能性の残滓でも見出してみたいという願いが生み出した戦略、というべきかもしれない。
こうした反省から改めてアヴァン・ポップの実践例を眺めまわしてみた時に、Eugene Chadbourne や Captain Beefheart の音楽の根底に横たわるアメリカのルーツ・ミュージックへの関心とある種の諦念(それは Frank Zappa にもつながるかもしれない)が、ありえたかも知れない別の60年代ロックの世界を描く Lewis Shiner の Glimpses (1993) や、メディア的記憶の作りだす悪夢的な風景の中を永遠に彷徨う Stephen Wright の Going Native (1994) などと通底し、「ポスト60年代」を芸術はどう生き延びるべきかという問いかけを前景化してくる。
本発表は体系的な文化論でも作家論でもないが、上記を始めとする60年代から90年代の音楽と文学作品の作りだす「風景」とも言うべきものを可視化できればと思っている。
慶應義塾大学大和田俊之
ニューヨークのフォークウェイズ・レコードより発売された『アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック』(1952)は、ボブ・ディランを始めとする多くのミュージシャンを触発し、60年代前半のフォーク・リバイバルに決定的な影響を及ぼした。
1926年から32年にリリースされたレコード84曲を2枚組LP3巻に収録したこのコンピレーションは、ハリー・スミス(Harry Smith)という男によって編纂された。画家や映像作家として活動しただけでなく、文化人類学や民族音楽学にも精通し、錬金術やオカルトにも造詣が深く、世界各地のストリング・フィギュア(あやとり)やウクライナ産のイースター・エッグなどの蒐集家としても知られる人物である。
その後も『アンソロジー』はルーツ・ミュージック再評価の文脈でたびたび取りあげられ、アメリカの〈過去〉に潜むゴシックでファンタスティックな様相をあぶり出す編纂物として注目されている。『ミステリー・トレイン』の著者グリール・マーカスも、このコンピレーションが醸し出す不可思議な世界観を “The Old, Weird America” と形容した。
しかし、スミスは『アンソロジー』を編纂する以前に西海岸の前衛映画のシーンにかかわっており、東海岸に移り住む理由のひとつとして「マルセル・デュシャンに会いたかった」と述べている。ニューヨークではアレン・ギンズバーグなどのビート詩人とも交流を深め、当時のイースト・ヴィレッジのカルチャーに深くコミットした人物でもあったのだ。
本発表では、『アンソロジー』をブルースやヒルビリーのコンピレーションではなく、ハリー・スミスというひとりのアーティストの〈作品〉として捉え、それをアメリカ文化における〈前衛〉の系譜に位置づけたい。シュルレアリスムと民族学が交錯し、抽象表現主義がアート・シーンを席巻した時代に1920年代から30年代にかけて録音された84曲はどのような〈響き〉をもたらしたのだろうか。『アンソロジー』の歴史的背景をあらためて検証すると同時に、その〈前衛性〉を解明したい。
横浜国立大学中川 克志 (聴覚文化論)
本発表では、ともに1912年生まれで今年生誕100年を迎えるアメリカの実験音楽家ジョン・ケージ(John Cage)と前衛芸術家ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)をとりあげ、とくに二人の「メディア」への距離を測定することで、1950年前後アメリカのアヴァンギャルド芸術が持っていた「メディア」概念について考察する。
同世代のふたりには実はあまり接点はなかった。アヴァンギャルドな芸術家として脚光を浴びるようになったのは、ポロックが先でケージは後からだったし、ポロックはケージにほとんど言及しなかったし、ケージはアルコール漬けのポロックを嫌っていた。実験音楽家ケージと比較する美術家としては、個人的な親交関係もあったマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)やロバート・ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)をあげるのが普通だろう。
とはいえしかし、ケージとポロックを比較することで得られる知見がある。
まず、二人を考察することで1950年代のアメリカのアヴァンギャルド芸術のなかにジャンルの溶解—音楽と美術—というトピックを見出すことができるのではないか。二人は後続世代からは、ともにメディア—絵画のメディアとしてのキャンバスと音楽のメディアとしての音響—の本質的な特徴を追及した存在として、似たような位置にある先行世代として受容されたからである。そこでは何らかの脱領域的なメディア理解が生まれたのではないだろうか。
また、記録メディアに対する二人の距離感を測定することで、1950年代以降に爆発的に普及することになった様々なメディアに対するアヴァンギャルド芸術の距離感をあぶり出すことができるかもしれない。取り上げるべきは、絵画の記録メディアとしてのキャンバス、音楽の記録メディアとしてのスコア、そして音響磁気録音テクノロジーである。
このように様々な「メディア」との距離を測定することで、50年前後の前衛の一側面を明らかにすることを目指す。