開始時刻 |
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司会 | 内容 |
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橋本 安央 |
1.Billy Budd, Sailor におけるバーク的保守主義の影響 笠根 唯 : 一橋大学(院) |
2.Billy Budd, Sailor におけるクラガートの死 大武 佑 : 成蹊大学(院) |
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福岡 和子 |
3.Herman Melvilleの"Benito Cereno"における男のケア 髙橋 愛 : 徳山工業高等専門学校 |
4.前景化する他者 — Ralph Ellison の読むMelville 竹内美佳子 : 慶應義塾大学 |
笠根 唯一橋大学(院)
Herman Melville (1819-91) はアメリカン・ルネッサンスを代表する作家であり、超絶主義者の一人であると考えられてきた。そのため、彼の創作のモチーフや彼自身について論じられる場合は、 R. W. Emerson (1803-83) やドイツ観念論と比較されることが多かった。確かに彼の超絶主義的側面を無視することはできないが、 Melville はイギリスの社会思想についても関心があったと思われる。例えばメルヴィルは遺作 Billy Budd, Sailor において、イギリスの思想家 Edmund Burke (1729-97) と同じくイギリスの思想家 Thomas Paine (1737-1809) の間で行われたフランス革命についての論争に言及する (BB 48)。本発表ではこのことを契機として、 Billy Budd における Burke の影響を指摘し、なぜ Melville が語り手を通して作中で Burke 的保守主義に言及したのか、そしてそのことを考察する現代的意義を模索する。
Burke の思想の根幹を成すのは、イギリス王政を擁護する保守主義である。例えば1774年のブリストルの選挙演説で Burke は、一度私が国会議員になったならば、この選挙区の利益のために政治を行うのではなく、国家の利益のために政治を行うのだと述べる。また、彼は Reflections on the Revolution in France において、フランス革命をブルジョアによる主権の剥奪であるとみなし非難し、統治者の主権は "prescription(時効)" により取得され、これを自然法の大きな基本的命令であるとして、国王の統治権が自然法によって保護されていると主張する (Burke 153)。このようなレトリックで Burke は、イギリス王政を擁護する立場をとる。これが彼の保守主義の概観である。
一方、 Billy Budd の舞台が18世紀末に設定されており、作中でも18世紀末がフランス革命の余韻を残す時代であったと述べられること、そして先に述べた Burke と Paine の間の論争への言及を踏まえると、 Burke 的保守主義を念頭に置きながら作品を読むことは有意であると考えられる。そしてさらに注目すべきは戦艦 Bellipotent 号の船長 Vere である。なぜなら Vere は、 "With mankind, ... forms, measured forms, are everything; and that is the import couched in the story of Orpheus with his lyre spellbinding the wild denizens of the wood" (BB 128) と述べており、革命の雰囲気漂う時代においてイギリス国王の名の下に定められた海軍の規律を重視する保守的な人物として描かれているからだ。また Brook Thomas や Thomas Scorza も指摘するように、 Vere はフランス革命を支えた新しい思潮に対して懐疑的であり、イギリスの王権を擁護する人物として描かれている (Thomas 55, Scorza 68-69)。つまり、 Melville は作中で Vere を Burke 的保守主義者として描いていると考えられるのである。
このように Vere 船長が Burke の保守主義を反映させたキャラクターとして描かれるとき、メルヴィル自身の作家的意図、そしてその現代的意義とは何か。 Billy を軍規に則り処罰した後、 Vere はとある戦いで致命傷を負う。その時彼は生死の境をさまよいながら Billy の名前を譫言のように呟く。無垢なる Billy を救うことができなかった後悔からだろうか。しかし奇妙なことにそこには悔恨の響きはない (BB 129)。このことは、物語が単なる寓話ではないことを意味しているように思われる。つまり、そこには Melville の作家的意図がこめられているように思われるのだ。 Melville は Burke 的保守主義を顕著に反映する Vere 船長の死に、厳格な保守主義の末路を投影しているのではないだろうか。そしてそうした保守主義は現代のナショナリズムをめぐる問題と分けて考えることができないように思える。 Billy Budd を論じる現代的意義とは、まさにこうしたところにあるのではないだろうか。
大武 佑 成蹊大学(院)
ハーマン・メルヴィルの Billy Budd, Sailor (An Inside Narrative) (1924) は、軍艦ベリポテント号に強制徴募された水夫のビリーを中心に起きた出来事を、語り手が回想する形式をとる。舞台となる時代は「蒸気船が現われる以前」(43)の1797年である。J.ワットによる蒸気機関の改良により産業革命が推進されたのが、1760年から19世紀初頭とされることからも、本作品の背景には、産業革命による社会や経済の構造の大きな変革と、その変化がもたらす不安定な空気が色濃くただよう。ベリポテント号の乗組員達は、この不穏な時代の影響下におかれていたことだろう。本発表では、武器係曹長のクラガートを、大変革の時代の影響を受けた存在であると捉え、彼が迎える不自然ともいえる死について論じる。
クラガートは、 "Handsome Sailor" (43) と呼ばれるビリーに密かな、しかし強烈な嫉妬心を抱いている。この二人を取り巻く物語が進行し、両者の死を招くきっかけとなるのが、ビリーによる「スープこぼし事件」である。スープこぼし事件とは、クラガートとビリーが、言語的、身体的にも初めて接近した場面である。吃音症のビリーと知的能力の高いクラガートとの間には、この事件以前には、言語による交流も身体的な接触もなかった。この「事件」の際も、両者は接近していたにも関わらず、会話という言語の接触に至ることはなく、身体的には、上司であるクラガートがビリーをラタンの鞭で軽く叩くという間接的な接触のみであった。
メルヴィルは語り手の立場から、クラガートという人物を理解するには、間接 (indirection) が重要であると述べている。彼の性質を理解するためには、通常の人間の性質との間に、渡らねばならない「致死の空間」 "the deadly space between" (74) があるのだ。クラガートの周囲に横たわる間隙が、メルヴィルの言う「致死の空間」であるとすると、ビリーは無垢さゆえに、「致死の空間」をスープによって無意識的に横断してしまったのだ。クラガートは、この出来事を契機に、それまで内面に抑えていたビリーへの嫉妬心を表出させ、最終的には自らをも死に至らしめる行動を起こす。彼は、船長ヴィアが "Struck dead by an angel of God" (878) と表現する、ビリーのこぶしの「一撃」による死を迎える。
悪の象徴として描かれるクラガートは、なぜビリーのこぶしによる死という非現実的な結末を迎えたのか。この疑問を、ビリーとクラガートが、両者の間にある「致死の空間」を言葉によってではなく、スープという媒介物によって間接的に接触したということを手がかりに考察する。本作品が書かれた1888年から1898年は、アメリカで資本主義が定着し、それがマルクスなどによる分析の対象になった時期である。資本主義は、技術革新と連動して人々の労働の様式を機械化し、生産される結果との関係を不連続なものにした。資本主義社会における急激な技術革新を背景にクラガート像の新たな側面を探り、彼の死は、行為とその結果との因果関係を構築できない、技術革新の時代における不連続性によるものであるという可能性を提示する。
髙橋 愛 徳山工業高等専門学校
Herman Melvilleの"Benito Cereno"(1855)において、アメリカ人船長Amasa Delanoは、スペイン商船サン・ドミニック号を訪れ、反乱首謀者Baboの演出による偽装とは全く気づかぬまま、船内の様子を眺めることとなる。さまざまな偽装工作の中でもとくにDelanoを惑わせたのが、スペイン人船長Benito Cerenoとその「下僕」として彼をまめまめしく世話するBaboの関係である。BaboによるCerenoのケア(介護・養護)は、Baboが心に抱いていた悪意の隠蔽とその暗示に関する議論、あるいは、善良性といった黒人全般の性質として信じられてきたものの偽装についての議論において言及されてきた。しかしこの作品の分析において、ケアそのもの、すなわち、男が男によってケアをされているという状況そのものに注意が注がれることはほとんどなかった。
男にとってケアの当事者になることは、受給者となる場合であれ提供者となる場合であれ、自らの「男」としての自己概念を危うくする行為だと考えられる。それは、ケアを受けることは、「男らしさ」の理念にもとる行為と従来みなされてきた、他者への依存を甘受することを意味するからであり、他方ケアを提供することは、病人の身の回りの世話といったケア労働が古くから女の役割と受けとられてきたという事実を踏まえれば、男/公的な領域ではなく女/私的な領域に入りこんでいるということとなり、「男らしさ」の理念に抵触するからである。またMelvilleは、その作品に近代のジェンダー規範からは逸脱するような男あるいは男同士の結びつきを描きこんだ作家であるが、Typee (1846)やBilly Budd (1891; 1924出版)といった作品においても男による男に対するケアを扱っている。以上の点から、"Benito Cereno"を分析するうえで、サン・ドミニック号上で繰りひろげられる男のケアは看過されるべきではない。
本発表では、"Benito Cereno"で描かれる男のケアに焦点を当てる。物語の設定となっている18世紀末と作品が書かれた19世紀中葉のそれぞれの時代のアメリカにおいて男による男のケアはどのようなものとして位置づけられていたのか、また、ケアは当事者たちの「男」としての自己像にどのような影響をおよぼしていたのかを検討したうえ、作品で描かれる男のケアが、ケアを提供する黒人Babo、ケアを受けるスペイン人(白人)Cereno、さらに、彼らのケアを眺めつづけるアメリカ人(白人)Delano、それぞれの男としての自己像に対して、どのような影を落としているのかを分析していく。とくにケアの当事者ではないDelanoにも注目し、彼がサン・ドミニック号上で行われる男による男のケアをどのようにとらえていたのか、また、真相が明らかになった後で彼がサン・ドミニック号での体験をどのようにとらえなおしているのかを見ていくことで、男のケアという問題をとおして、Melvilleが社会で是認されていた「男らしさ」の概念とどのように向きあっているのかを考察していきたい。
竹内美佳子 慶應義塾大学
アメリカ文学と自らの本質的関係を追究する創造意識は、Ralph Ellisonを極めて批評的な作家にした。Ellisonにとって書くことは、時間の堆積する過去と対話しながら、アフリカ系アメリカ人としての複雑な自己と向き合う行為である。評論集Shadow and Act (1964) に記すとおり、アメリカ文学は自身の「声」を見出す原動力であると同時に、そこに構築された現実世界の像に何らかの変奏を加え、新たな意味を引き出してゆく企図へ駆り立てる存在でもあった。
"Benito Cereno" (1855) の一節をエピグラフに掲げる Ellison の長編小説 Invisible Man (1952) が、海豹船内奴隷反乱を描く Melville の小説を底流に意識するのは明白である。 Melville は、船長 Cereno にスペイン王国の末裔としての象徴性を与え、大航海時代に始まる西洋世界のアフリカ収奪を奴隷船の小空間に凝縮した。 Ellison の実験小説は、 Melville の描く南洋の奴隷反乱を、20世紀アメリカにメタフォリカルな手法で据え直し、人種搾取という植民地主義の遺物を風刺することで、現代社会に転覆的な異議申し立てをする。 The Confidence-Man (1857) に Melville が描くミシシッピ川の蒸気船においては、奴隷諸州を深く南下するにつれ、次々に変装して現れる主人公が乗客たちを目くらます。この謎めいたキャラクターの「黒い兄弟」とも称される Invisible Man の Rinehart は、仮装し変容する多面体的人格によって、不断に流動する存在の可能性を暗示する。 Ellison にとり文筆行為そのものが、仮面をつけることと同義であり、想像力の自由によって微小の可能性をも操り、所与の状況を超え出てゆく能動的企てにほかならない。
Invisible Man の名もない主人公は、アメリカ社会の要求する行動規範から本能的に逸脱を繰り返し、揚げ句に地下の洞窟へ転落する。法律文書の筆写を拒む Bartleby の懈怠に読み取った「否」の化身を、 Ellison は新たな笑いに包んで20世紀の社会的文脈に蘇らせた。主人公が無意識の行動に表すイノセントな「否」は、解放奴隷の祖父が黒い「仮面」の奥から発し続けた意識的な「Yes/然り」の謎へと、究極的に反転してゆく。暗黒の地下空間に沈潜して聴く Louis Armstrong のジャズは、その晴朗な声の最深層において、 Moby-Dick (1851) の Ishmael が垣間見た黒人教会を、歴史の亡霊に満ちた呪術的な響きで現出する。
Melville の作品に奴隷解放思想を読み取る批評は、1980年以降本格化するが、 Ellisonは Melville を含むアメリカン・ルネサンスの文学が示す社会意識の真価を、自らの「他者性」という位置取りから1945年に看破した。 "Benito Cereno" を巻頭に引く Invisible Man は、歴史に沈黙させられた「他者」の声を前景化し、文学作品の新たな読みを開示する批評家としての意志表示でもある。魅せられた旋律に変奏を展開し、音楽のもつ意味を発展させるジャズマンの如く Ellison が19世紀文学を読むさまを、 Invisible Man と評論群に考察したい。