髙橋 愛 徳山工業高等専門学校
Herman Melvilleの"Benito Cereno"(1855)において、アメリカ人船長Amasa Delanoは、スペイン商船サン・ドミニック号を訪れ、反乱首謀者Baboの演出による偽装とは全く気づかぬまま、船内の様子を眺めることとなる。さまざまな偽装工作の中でもとくにDelanoを惑わせたのが、スペイン人船長Benito Cerenoとその「下僕」として彼をまめまめしく世話するBaboの関係である。BaboによるCerenoのケア(介護・養護)は、Baboが心に抱いていた悪意の隠蔽とその暗示に関する議論、あるいは、善良性といった黒人全般の性質として信じられてきたものの偽装についての議論において言及されてきた。しかしこの作品の分析において、ケアそのもの、すなわち、男が男によってケアをされているという状況そのものに注意が注がれることはほとんどなかった。
男にとってケアの当事者になることは、受給者となる場合であれ提供者となる場合であれ、自らの「男」としての自己概念を危うくする行為だと考えられる。それは、ケアを受けることは、「男らしさ」の理念にもとる行為と従来みなされてきた、他者への依存を甘受することを意味するからであり、他方ケアを提供することは、病人の身の回りの世話といったケア労働が古くから女の役割と受けとられてきたという事実を踏まえれば、男/公的な領域ではなく女/私的な領域に入りこんでいるということとなり、「男らしさ」の理念に抵触するからである。またMelvilleは、その作品に近代のジェンダー規範からは逸脱するような男あるいは男同士の結びつきを描きこんだ作家であるが、Typee (1846)やBilly Budd (1891; 1924出版)といった作品においても男による男に対するケアを扱っている。以上の点から、"Benito Cereno"を分析するうえで、サン・ドミニック号上で繰りひろげられる男のケアは看過されるべきではない。
本発表では、"Benito Cereno"で描かれる男のケアに焦点を当てる。物語の設定となっている18世紀末と作品が書かれた19世紀中葉のそれぞれの時代のアメリカにおいて男による男のケアはどのようなものとして位置づけられていたのか、また、ケアは当事者たちの「男」としての自己像にどのような影響をおよぼしていたのかを検討したうえ、作品で描かれる男のケアが、ケアを提供する黒人Babo、ケアを受けるスペイン人(白人)Cereno、さらに、彼らのケアを眺めつづけるアメリカ人(白人)Delano、それぞれの男としての自己像に対して、どのような影を落としているのかを分析していく。とくにケアの当事者ではないDelanoにも注目し、彼がサン・ドミニック号上で行われる男による男のケアをどのようにとらえていたのか、また、真相が明らかになった後で彼がサン・ドミニック号での体験をどのようにとらえなおしているのかを見ていくことで、男のケアという問題をとおして、Melvilleが社会で是認されていた「男らしさ」の概念とどのように向きあっているのかを考察していきたい。