1. 全国大会
  2. 第43回 全国大会
  3. <第1日> 10月16日(土)
  4. 第10室(8号館2階 823教室)

第10室(8号館2階 823教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
 

1.セッションなし

2.白の修辞学(レトリック)——Emily Dickinson と Wallace Stevens の絵画のモチーフをめぐって

  松本 明美 : 関西福祉科学大学

3.Hart Crane の詩の不透明性とセクシュアリティ

  長畑 明利 : 名古屋大学

4.Adrienne Rich の「you」の詩学

  渡部 桃子 : 東京都立大学



松本 明美 関西福祉科学大学


Emily Dickinsonにとって「白」という色は、“A solemn thing—it was—I said— / A Woman—white—to be—”(307番)で始まる詩が示すように、象徴的かつ神秘的な意味を持つ。それはDickinson が実際、白いドレスを身にまとっていたという伝記的事実と無関係ではない。しかしながらDickinsonの「白」は多彩なイメジを喚起するため、詩によっては様々な解釈を許容する。

「白」を意識した作家や詩人はDickinsonだけではない。おそらく大方の意見として、Herman MelvilleのMoby-Dick を即座に思い浮かべるだろう。他に、「白人」対「黒人」という人種問題をテーマにした小説もある。詩人に関しては、Wallace Stevensの詩、“The Snow Man”が代表的である。この詩では、人が真っ白な雪景色に目を凝らし、沈黙の中で耳を澄ます様子が描かれている。さらに雪の白さが無化され、「無(“nothing”)」そのものを凝視する行為に発展していく。言い換えれば「無」というキャンバスに、想像力という色や線を描き足すことになる。この「無」のキャンバスに絵を完成させるというモチーフは、Stevensの“Add This to Rhetoric”という題の詩に見られる。この詩は単に、1枚の絵を完成させるまでの過程を呈示しているのではない。詩の中の人物は、「感覚」を研ぎ澄まして描いている対象に挑もうと試みるが、絵とは関連のない「言葉」や「音楽」という言葉が唐突に出てくるため、一層複雑なStevensの芸術的思考が露呈されている。

Dickinsonの有名な詩、“This was a Poet—”(446番)では、詩人の条件は絵の意味を「明らかにする人(“the Discloser”)」となっている。さらに別の詩、“A Spider sewed at Night”(1163番)には、「白い孤(“an Arc of White”)」の上で夜に巣を織り上げる「蜘蛛」の様子が描かれている。この詩では、白く小汚い蜘蛛の巣が「不滅」という高次元のものに変容する。別の詩“The Spider as an Artist”(1373番)の中でDickinsonは、「蜘蛛」は「芸術家」だと明言している。513番の詩の「蜘蛛」は神聖な「白い孤」を織り上げるための「真珠の糸(“Yarn of Pearl”)」を保持している。 Dickinsonが好んで使う“Pearl”は、白さの象徴でもある。

DickinsonとStevensに共通している考え方は、「白」に秘められた無限の可能性である。つまり詩人は白い紙に、画家は白いキャンバスに思いを込める。Dickinsonが“‘Nothing’ is the force / That renovates the World—”(1611番)と主張するように、詩人や画家は沈思黙考を繰り返しながら想像力を駆使して、「無」から独自の新しい「世界」を構築する。DickinsonとStevensが自分の詩に絵画的な視点や用語を取り入れたのは、「無」の状態から高度な芸術を創造する過程を具体的に示そうとしたからである。両者の“white”という言葉から連想されるイメジの根底には、詩という芸術への深い愛情が込められている。


長畑 明利 名古屋大学


クレインの詩はしばしば「不透明」あるいは「抽象的」であると形容される。実際、彼の詩の多くには、複数の異なる文脈の重置、抽象名詞による普通名詞の代用、オクシモロンの多用、非日常的な概念連結をもたらす隠喩の使用、等位接続詞による不均等な二項の連結、抽象名詞と普通名詞の不自然な連結、倒置あるいは主語と目的語・補語の乖離といった言語使用上の特異性が見られる。こうした特異性を意図的な obscurantism として片づけることも可能だろうが、しかし、クレインにとって、「言語の不透明性」または「抽象性」は、現実の世界を越え出ようとする彼の強烈な「超越」衝動がもたらす結果である。クレインは、日常的・具体的事物の描出を通して超越的な「絶対的世界」に到達するという野心的な詩法を目指していたのであり、その衝動が日常性と具体性を、また、日常言語において用いられる統語法を変容させるのである。本発表では、クレインのこうした超越衝動を、彼のセクシュアリティとその描写との関連から考察する。

クレインは少年の頃、実家を訪れた家庭教師から同性愛を強いられた可能性があり、高校時代にも男子生徒と同性愛の関係にあったとされる。後年の同性愛の経験もよく知られるところである。こうした彼のセクシュアリティの反映を何篇かの詩に見ることはさして困難なことではない。しかし、クレインの詩における同性愛の仄めかし、あるいは、ときにあからさまに見える性行為の描写が、彼のロマン主義的な超越衝動と連動していることを無視することはできない。それらの詩に見られる肉体関係を暗示する言語はしばしば苦痛と苦悶に満ちており、その身体的・精神的苦痛こそは、神秘的な超越的世界への参入のための必要条件なのである。性的な経験とそれに付随する苦痛は、芸術における超越的領域を獲得するための手段なのである。ところで、参入あるいは接近が目指されるその超越的領域は、不透明にして抽象的な言語で描出されている。なぜなら、日常的・現世的な経験世界を超越する領域は、必然的に表象不可能なものであり、それを描き出す言語は「不透明」で「抽象的」にならざるを得ないからである。クレインの詩においては、こうした超越的な領域を描き出す不透明な言語が、その領域への接近あるいは参入を可能にする身体的苦痛の描写と混ざり合う。苦痛を伴うものとされる同性愛の描写は、表象不能な超越的領域への接近を擬似的に表象する言語表現の一部となるのである。

発表においては、“Possessions” をはじめ、同性愛を仄めかすと考えられる身体的苦痛の表現を伴うクレインの短詩の幾つかを採り上げ、上記の指摘を具体的に確認する。時間が許すようであれば、さらに、詩人の性的志向と詩言語の特性との関係について、他の詩人の例とも比較しつつ考察を加えたい。


渡部 桃子 東京都立大学


1951年、22歳の時に最初の詩集、『世界の変化』を出版した時からアドリエンヌ・リッチは、良い意味でも、悪い意味でも常に注目を集めてきた詩人であった。特に1973年、ラディカル・フェミニストとしての姿勢をより明確にした詩集、『難破船に潜る』を出版した後からは、詩人としてのリッチに対する(特に批評家の間での)毀誉褒貶の度合いが激しくなっていく。たとえば、アメリカの現代詩に「人間同士を結びつける」という詩の「本来の役割」を取り戻させた詩人として称揚される一方、詩が言語の芸術であることを忘れ、自らの「イデオロギー」を標榜する道具としている、また言語と「現実」の複雑な関係を無視して、昔ながらの「古臭いスタイル」に固執していると非難されたりもする。リッチの詩(またそれと共に、彼女の数多くの散文)を読んだ者は、リッチを全面的に受け入れるか、あるいは完全に拒否するか、そのどちらかになるようだ。

結局のところ、リッチを高く評価するか、しないかは、「詩と社会との関係はどうあるべきか」、「社会における詩の役割はどうあるべきか」、さらには「詩はどうあるべきか」という問題とかかわりがあるのではないだろうか。またそのことは、言語の役割をめぐる論議ともかかわってくるだろう。別の言い方をすれば、リッチが言語を単に何かをあらわすための道具とし、言語の物質性を無視しているかどうかが、詩人としてのリッチの評価と深くかかわっていると思われる。そこで、今回の発表では、リッチの「古臭いスタイル」と評される詩 − いわゆるlyricと呼ばれる詩 − に用いられている「呼びかけ『you』」に焦点を合わせてみたい。

無論、現在では、ある一定の形式を持つ詩がlyricとされるわけではなく、むしろlyric=詩と定義されることも多い。しかしlyricは、従来「盗み聞かれた発話」(ミル)、「詩人が聞き手たちに背を向けている」詩(フライ)とされており、lyricとは、語り手「I」が読者ではない誰かに語りかけるという詩であり、そこで使われる「you」は、「不在」であるという前提が長く保たれてきた。またその「不在のyou」は、従来の典型的なlyricであれば、そのlyricの語り手である「I」が表出させた世界の一部にすぎず、決して「他者」ではないとされる。つまりlyricには、「自己の無限膨張に伴う他者完全喪失」の可能性(危険性)がないとは言えないのである。

それならば、詩を自らの意識、それを読む者たちの意識を変革するもの、さらには自分と読者を、読者同士をつなぎ合わせる(connect)するものと捉え、そのことによって最終的には社会全体をも変革する潜在力を持つものとするリッチなどは、当然lyricという詩型自体を諦めるべきではないかとも思われるが、むしろリッチは、lyricを − 特にlyricにおける「I」と「you」の関係を変えることによって − 「修正」することを選んだ。今回の発表では、リッチの詩における「you」の変遷をたどることにより、リッチがいかにlyricを「修正」していったかを明らかにしていきたい。