開始時刻 |
|
---|
司会 | 内容 |
---|---|
田川 幸二郎 |
1.ジェンダーを読む —— The Hamlet におけるペルソナの変更と男性性 塚田 幸光 : 防衛大学校 |
重迫 和美 : 比治山大学 |
|
田中 久男 |
諏訪部 浩一 : 東京学芸大学 |
4.Growing Up Southern: The Ferrol Sams Trilogy James M. Vardaman : 早稲田大学 |
塚田 幸光 防衛大学校
FaulknerのThe Hamlet に関する批評の困難は、例えばMichael MillgateがFlemを軸としたSnopes三部作の連続性を強調し、Noel PokeがFlemとMinkの対立構造に三部作の結節点を見出したように、Snopes 一族を中心とした物語の父権的側面に批評の焦点が当てられ、それが解釈の前提となってきた点にある。もちろん、Diane Robertsらのように、EulaとLindaの関係にCaddyとMiss Quentinの関係を重ね、女性/母子の意味を積極的に評価する論考も数多くあるのも事実だが、皮肉にも女性表象の再考は、Faulkner作品が内包する男性原理と父権的側面を逆照射しかねない危険性を孕んでいる。例えばそれは、Flemが権力を手に入れるプロセスが、Eulaが死へと歩を進めるプロセスと呼応し、彼の地位を逆説的に保証してしまうことや、物語から退場するのは女性、つまりはEula母子であることに顕著だろう。またFlemが、Eulaの妊娠を利用して、Varner一族への参入を成し遂げ、さらにThe Townでは、彼女とde Spainとの不義密通を逆手に取り、地位と権力を手中に収めることなどは、女性のセクシュアリティが金銭や権力に置換されることをも示唆するだろう。
Flemにとって女性は金銭に等しく、権力獲得の手段にすぎない。だが、果たして彼の不能が暗示するように、The Hamletで描かれる性的アイデンティティが、強固な男性性を有しているということはどの程度まで可能なのだろうか。Eulaをめぐる兄Jodyや、教師Laboveのふるまいを見れば、少なくとも彼らの男性性には疑問符を付けざるを得ない。また、The Hamlet の原型であるFather Abrahamが、Flags in the Dust と同時期に構想されたことや、“Afternoon of a Cow”などの短編が改編されThe Hamlet に組み込まれた経緯を考えれば、そこに「男性性の不安」という主題をFaulknerが意図していなかったはずはないのだ。“Afternoon of a Cow”で雌牛の排泄物を浴びるMr. Faulknerが、The Hamlet では、雌牛と性交を試みるIke Snopesへと改編されたことは適例だろう。ここでは少なくとも父権は存在しないし、Flemの物語との接点も見いだせない。だが、Faulknerがこの物語をThe Hamlet へ組み込んだことに意味を読み込むとき、Flemに象徴される権力/金銭獲得の物語の背後に、「脆弱な男性性」という別の主題が見えてはこないだろうか。そして、その性的アイデンティティの不安を隠すために、新たなペルソナを作る必要性があったのではないだろうか。
そこで本発表では、The Hamlet 成立過程におけるジェンダー表象に注目することで、Faulknerがどのように「農夫」というペルソナを使い、男性性の不安を隠蔽/開示したのかを考察する。そして登場人物の性的アイデンティティの不安が、何処に接続しているのかを見出そうと思う。
重迫 和美 比治山大学
21世紀の現在において, 20世紀アメリカ文学を代表する主要作家の一人として評価が定まった観のあるWilliam Faulknerではあるが,彼が作家デビューを果たした1926年から1930年代後半あたりまでの彼を取り巻く文学環境は趣を異にしていた。出版当時の書評からは,同時代の批評家達が今日彼の代表作とされるThe Sound and the Fury (1929), Absalom, Absalom! (1936)を前にしてどのように評価して良いのか判断に悩み,困惑している様子がうかがえる。否定的な意見は主として彼の難解な文章,スタイルに非難の矛先を向けていた。Faulknerの新奇なスタイルは,読者を徒に戸惑わせるものにしか見えなかったようだ。
アメリカ内外の彼の理解者達による解説のおかげで,一見奇抜で意味不明なこのスタイルこそ,Faulknerの文学世界を表現するために必要不可欠な技法であり,彼の作品世界の理解は技法の解題なしには不十分である,という主張がやがて主流を占めるにつれて情勢は変化した。彼が1930年代に生み出した珍しい作風の作品群は斬新で前衛的・実験的・革新的な名著と見なされるようになる。その結果,1926年以降の彼の作家歴は,習作期[Soldiers' Pay (1926), Mosquitoes (1927)など]-- 主要期[The Sound and the Fury (1929), Absalom, Absalom! (1936), Go Down, Moses (1942)など]-- 停滞期[Intruder in the Dust (1948), A Fable (1954)など]-- 円熟期[The Town (1957), The Mansion (1959)など]と概括されるのが今日では一般的になった。
Faulknerの作品世界における作品間の勢力図はここ数十年間変化ない。かつて批評家達に酷評された目新しい技法による作品は今や文学界の金字塔として評価が高く,技法が目立たなくなってきた後期--1940年代半ばから1950年代にかけて--の作品の評価はやや落ちるとされる。加齢,経済的困窮,世界大戦など,いくつもの負の事柄に50代になった彼は直面しており,それらが創作意欲・力の減退をもたらしたと言うのだ。しかし,果たしてこの「停滞期」は,本当にFaulknerの筆力が衰えた時期であったのか。彼の作家生命は尽きかけていたのか。
私の考えでは,筆の歩みの遅滞や技法の潜みは,創作意欲の喪失や創意工夫の欠如として短絡的に解されるべきではない。Faulkner文学総体を理解するためには,むしろ,Faulkner作品の勢力図を支える根拠となり,Absalom, Absalom! に最高得点を付けるような作品評価の基準でもって多作な彼の全作品を判断しようとする批評態度自体を問い直す必要がある。彼の筆が進まなかったのは,勢い任せにではなく慎重に書き進めたからであり,技法の工夫が目立たないのは,実験をやめてしまったのではなく目立たないような工夫を仕組んでいるからだと考えることも出来るのだ。
本発表は,Faulkner文学の総合的理解を助けるために,晩年に至るまでの彼の作家としての歩みを文学の教科書を鵜呑みにすることなく丁寧に跡づける作業の一環である。「主要期」の傑作 Absalom, Absalom! と10年以上の歳月を費やして書かれた,新しい技法の目立たない「停滞期」代表作A Fable を主たる対象としつつ,特に技法の変遷 - 語り方の変化・語り手たちの多様な特異性 - に焦点を当てる。モダニズムの洗礼を受けたFaulknerは自身の物語の語り方に常に自覚的であったし,彼の作品の良し悪しを決める基準が大なり少なり技法のきらびやかさに左右されていると思えるからだ。ただし技法という作品の一側面のみを作品そのものと切り離して強調するのではなく,個別の作品においてFaulknerがそのような語り方を必要としたのはなぜか,作家と作品の距離を視野に入れて検討していきたい。
諏訪部 浩一 東京学芸大学
William Faulkner が1920年代に書いた小説、すなわち Soldiers' Pay から As I Lay Dying に至るまでの作品において、「父」は概して無力、あるいはその存在は希薄である。これは1つには "New Woman" の社会進出が進んだ "male anxiety" の時代を反映する現象であるだろうし、もう1つにはロマンティックな詩人として出発した Faulkner が、小説家としての修行期間において「母」というロマン派的主題を探求したことの陰画でもあるだろう。しかしながら、1930年代の Faulkner は社会的関心を深めていくにつれて、作品で「父」というテーマを前景化していくことになる。このような観点からすると、Sanctuary の全面改稿が Horace Benbow の「母探し」から Temple Drake の「父探し」へのシフトであることは、Faulkner のキャリア全体にとって非常に象徴的であるといえるだろう。
本発表の主目的は、このような文脈に Sanctuary を置いてみることによって、Popeye の性的不能の意味を考察することである。物語のヒロイン Temple が示す「判事のイノセントな娘」から「ギャングのファム・ファタール的情婦」への変化は、その2つのステイタスがどちらも彼女の「父」への依存を示すという点において表面的なものに過ぎず、それ故にこの小説が父権制の問題を扱った作品であることを示唆する。そして Temple をレイプするばかりでなくやがては彼女によって "Daddy" と呼ばれる Popeye が性的不能者であることは、Faulkner が父権制をいわば空洞化したシステム、あるいは空洞化しているが故にうまく機能する制度であると見做していたことをも意味するのではないだろうか。
Popeye の不能とは、それが知られない限りにおいて、つまり神秘化されたままである限りにおいて、彼の男性性(「父」としての力)を保証する。これはほとんどファルスの定義そのものであり、またジェンダーがパフォーマティヴな概念であることの例証でもある。そしてさらにいうなら、Caddy Compson という「不在の(神秘化された)中心」にその達成の多くを負う The Sound and the Fury のモダニズムの詩学が父権的であるかも知れないということを、Sanctuary の作者は意識していたようにさえ思えるのだ。物語の結末近くでなされる Popeye の人生の要約的提示はしばしば蛇足として批判されてきたが、この「父」の「脱神秘化」(あるいは "humanization")の持つ意義は小さくない。
旧南部の強き「父」を徹底して脱神秘化する Absalom, Absalom! や Go Down, Moses、旧南部から新南部への過渡期に「父」がいわば自ら脱神秘化してしまう The Unvanquished、そして新南部における「不能の父」を扱う Snopes 三部作といった作品群の起源としてSanctuary を位置付けることが可能であると本発表が示唆できることを期待したい。
James M. Vardaman 早稲田大学
Although he had written virtually nothing with the exception of the medical records of his patients, in a small town south of Atlanta, since his freshman year in university, Dr. Ferrol Sams (born 1922) had longed to write about his memories of growing up in the Georgia countryside. He claims that in his 58th year he had intimations of mortality and decided that if he was ever going to write in the fictive mode he had better get started. Getting started so late in life was not easy and his first writings were gracefully deposited into the circular file, but gradually he found the voice that his readers recognize instantly today?one that is distinctly southern and perhaps closer to Eudora Welty than almost anyone else. Over a ten-year period he produced a trilogy that he describes as “hung on the central tree of reality” that has made him highly popular among readers who know the South and its various inhabitants. His characters are memorable and his tales are resonant with a sense of place and time.
Sams’ alter-ego protagonist is Porter Osborn, Jr., who we first meet in the years of the Depression on a red-clay farm in rural Georgia in Run with the Horsemen (1982). We follow him to university in 1938 in The Whisper of the River (1984) and on to medical school and the military at Omaha Beach in When All the World Was Young (1991). Precocious as well as mischievous, Porter reminds the reader of Huck and Holden, and Sams is a master storyteller throughout.
While the focus of the presentation will be on the trilogy, reference will be made to his short stories as well. Taken together they portray with both warmth and perception the struggle of a small-town southern boy coming to terms with his own position in the world and the greater issues of poverty, racism, religion and warfare. Due to the fact that Sams is not widely read abroad, I will dwell less on the details than with the main sweep of the trilogy and Sams’ place in the southern tradition of letters.