塚田 幸光 防衛大学校
FaulknerのThe Hamlet に関する批評の困難は、例えばMichael MillgateがFlemを軸としたSnopes三部作の連続性を強調し、Noel PokeがFlemとMinkの対立構造に三部作の結節点を見出したように、Snopes 一族を中心とした物語の父権的側面に批評の焦点が当てられ、それが解釈の前提となってきた点にある。もちろん、Diane Robertsらのように、EulaとLindaの関係にCaddyとMiss Quentinの関係を重ね、女性/母子の意味を積極的に評価する論考も数多くあるのも事実だが、皮肉にも女性表象の再考は、Faulkner作品が内包する男性原理と父権的側面を逆照射しかねない危険性を孕んでいる。例えばそれは、Flemが権力を手に入れるプロセスが、Eulaが死へと歩を進めるプロセスと呼応し、彼の地位を逆説的に保証してしまうことや、物語から退場するのは女性、つまりはEula母子であることに顕著だろう。またFlemが、Eulaの妊娠を利用して、Varner一族への参入を成し遂げ、さらにThe Townでは、彼女とde Spainとの不義密通を逆手に取り、地位と権力を手中に収めることなどは、女性のセクシュアリティが金銭や権力に置換されることをも示唆するだろう。
Flemにとって女性は金銭に等しく、権力獲得の手段にすぎない。だが、果たして彼の不能が暗示するように、The Hamletで描かれる性的アイデンティティが、強固な男性性を有しているということはどの程度まで可能なのだろうか。Eulaをめぐる兄Jodyや、教師Laboveのふるまいを見れば、少なくとも彼らの男性性には疑問符を付けざるを得ない。また、The Hamlet の原型であるFather Abrahamが、Flags in the Dust と同時期に構想されたことや、“Afternoon of a Cow”などの短編が改編されThe Hamlet に組み込まれた経緯を考えれば、そこに「男性性の不安」という主題をFaulknerが意図していなかったはずはないのだ。“Afternoon of a Cow”で雌牛の排泄物を浴びるMr. Faulknerが、The Hamlet では、雌牛と性交を試みるIke Snopesへと改編されたことは適例だろう。ここでは少なくとも父権は存在しないし、Flemの物語との接点も見いだせない。だが、Faulknerがこの物語をThe Hamlet へ組み込んだことに意味を読み込むとき、Flemに象徴される権力/金銭獲得の物語の背後に、「脆弱な男性性」という別の主題が見えてはこないだろうか。そして、その性的アイデンティティの不安を隠すために、新たなペルソナを作る必要性があったのではないだろうか。
そこで本発表では、The Hamlet 成立過程におけるジェンダー表象に注目することで、Faulknerがどのように「農夫」というペルソナを使い、男性性の不安を隠蔽/開示したのかを考察する。そして登場人物の性的アイデンティティの不安が、何処に接続しているのかを見出そうと思う。