開始時刻 |
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司会 | 内容 |
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後藤 和彦 |
1.Henry Jamesの "Crapy Cornelia"の沈黙と脱周辺化をめぐる言説 竹井 智子 : 甲子園大学 |
2.Adventures of Huckleberry Finn に見る宗教と近代 上西 哲雄 : 北星学園大学 |
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中村 紘一 |
3.解剖する詩学—Dickinson と「切る」「切り開く」 吉田 要 : 首都大学東京(院) |
4.戦場としての自然—Melvilleの Battle-Pieces 高尾 直知 : 中央大学 |
竹井 智子 甲子園大学
Henry James最後の短編集 The Finer Grain の一編、”Crapy Cornelia”は、新旧ニューヨークの対立と人生の後半になって旧知の女性の重要さに気づく男の話であるとして、”Jolly Corner”と並べられることが多い。同時に、当世風のMrs. Worthinghamから古きよき時代を象徴するCorneliaへといわば「鞍替え」する主人公White-Masonについては、父権主義的であるとしながらも同情的批評が大半である。しかし、彼の視点から語られる世界に見え隠れする人種の混合や女性の性の問題については、これまでほとんど指摘されてこなかった。James作品における人種の問題や作者の女性観については見解が分かれるところであるが、本発表では、非白人種と女性の脱周辺化、そしてそれを拒絶する白人男性の語りとその視点に 与する女性の沈黙を、”Crapy Cornelia”の中に読み解いていく。
まず、近代化されつつあるニューヨークに対する主人公の思いが、非白人種の増加に対する恐怖を示唆する言葉で表現されていることに注目する。James自身が The American Scene に記しているように、20世紀初頭の北部アメリカには非白人種が目立つようになっていた。”Crapy Cornelia”では、直接的ではないものの、冒頭から人種の混在を連想させる表現が多用されている。さらに作者の実体験を踏まえると、冒頭段落の”the daughters of the strange native”という表現は、主人公にとってニューヨークが、非白人種が混在する他者であることを示していると言える。このことは、彼が求婚するために訪問したMrs. Worthinghamの傍らに座る人物が、敵意と蔑みを込めて”black”と表現される時にさらに明確になるのである。
続いて、主人公がこの闖入者の正体を知った途端に、この3人の関係が一変することを指摘する。旧知のCorneliaはもはや敵ではなくなり、それまで同性愛的な親密さで描かれていた2人の女性の関係が、突然White-Mason中心の関係に置き換えられてしまうのである。その結果、非白人種の脱周辺化と女性同士の絆は隠蔽され、男は選択者に、女は選択肢に成り下がってしまう。尤も、このことが父権主義礼賛という読みに繋がるわけではない。「知っていること」の重要さを繰り返すWhite-Masonの視点を通した「語り」に、女性たちの沈黙、すなわち知識の隠蔽が共謀して、その父権主義的表層を作り上げていると言えるからである。
20世紀初頭のニューヨークにおける人種の分布やJamesが目撃した女性同士の絆など、historical、biographicalな事実を踏まえて、言及されることの少ないこの最後期の短編小説に、人種の混合および女性性に対するJamesの姿勢を読み取りたい。
上西 哲雄 北星学園大学
Mark Twainの代表作 Adventures of Huckleberry Finn (1884)の物語の枠組みはWidow Douglasによるsivilizeからの脱出で始まり、Sally Phelpsによるsivilizeの申し出からの脱出の決心で終わるというものである。Douglas姉妹やPhelps家が敬虔なキリスト教徒であることを考えると、sivilizeは勿論キリスト教教育であり、物語の枠組みはキリスト教教育の枠組みと言い換えることが出来る。その間の河下りも敬虔なクリスチャン・ホームであるGrangerford家や野外伝道集会でのキリスト教体験、そして奴隷の逃亡幇助を巡る苦悩も、キリスト教のsivilizeのプロセスとなっている。
Huckは一方で、また別の宗教的世界にも身をおいている。神秘主義的な信仰の世界である。彼は父親から祓(はらえ)の信仰を教え込まれている一方で、黒人奴隷Jimのspirit信仰にも半信半疑ながら関心を持っていて、時には霊媒としてのJimに占いを依頼することもある。河下りの途上でのふたりの交流には、しばしばJimの信仰が絡む形になっている。
物語に描かれるこうした宗教的な状況は、19世紀のアメリカに特有の宗教現象が反映されている。19世紀に入るとキリスト教は、17世紀のイギリス人植民地人によって始まったニューイングランドのピューリタンを中心とする信仰から、西部開拓の中で西部がsivilizeされながら培われる福音主義的なものに変化していく。一方、アメリカにとって19世紀はspiritualismを中心とする神秘主義的な信仰が急速に広まった時代でもあった。Transcendentalismが知識人の間で流行する一方、霊媒や催眠術によるspiritへの民間信仰がブームとなり、19世紀後半に入ると信仰による癒しを主張するChristian Scienceが登場する。
Mark Twainは物語の舞台となった1830・40年代に福音主義のキリスト教と民間信仰に満ちた西部で育ち、南北戦争のどさくさを越えて、1870年代からは東部知識人の中で作家活動を本格化させる。近代化の真っ只中に身をおいていた彼は、生まれ故郷で接した福音主義的キリスト教の単純な教えと情緒的な信仰からなる側面や、神秘主義的な民間信仰に対して、冷笑的なスタンスをとっていた。
Huckleberry Finn の物語には、19世紀前半に盛り上がった宗教状況に対する19世紀後半の東部知識人の視点が明らかにあって、宗教の描かれ方は冷笑的な部分が目立つ。その一方で、宗教を完全に否定し切っていない所も散見していて、丁寧に読んで行くとその曖昧なところが気になる。19世紀アメリカ社会は近代化が加速度的に進む一方で、キリスト教の中でも情緒的な側面が広がりを見せたり、spiritualismのような神秘主義的な信仰が広まったりするという、一見矛盾した状況が作り出されていた。作品のこの曖昧な部分に、当時の社会に対するMark Twainの思いを読んでみたい。
吉田 要 首都大学東京(院)
Emily Dickinsonはその詩作品において、自己の精神世界を「未知の大陸」として探索し、自己、意識、魂などについて断片的な精神世界を提示した。その断片化された精神世界に符合するかのように、彼女の詩作品では頭や顔、目、手足など、身体の一部分が断片化されて提示される。しかし、彼女の詩作品に提示されるのは外面的な身体だけに限らない。肺、腱、神経など身体内部が提示されることもある。それ以上に特異と思われるのは、脳が割れたり、四肢がバラバラになったり、骨や血管が露出したりするなど、身体にメスが入れられ、切り裂かれ、切り開かれる解剖のイメージが多く見受けられることだ。Dickinsonが「師匠」と呼んだThomas Wentworth Higginsonによって詩が批評されたとき、“Thank you for the surgery”(The Letters of Emily Dickinson 261番)という返答をしたり、Higginsonの酷評を受け容れる覚悟で、“I will be patient—constant, never reject your knife”(同316番)と述べたりしたことは、解剖のイメージの好例と言えるだろう。この例に見られるように、解剖されるのは人体だけに限らない。切開される対象は人の心、動物、植物などにも及ぶ。
本発表は、「解剖」をキーワードにして、Dickinsonの詩作品において「切る」イメージがどのように用いられているかを考察する試みである。切り裂いて中身を見る行為は、言語による分節化・分類化につながり、未知のものを知る探究心と結びつく。学校教育や雑誌の購読などで当時の諸科学の発展に触れていたDickinsonは、詩作品中で衒学的な科学者を揶揄し、科学的な言説に否定的な文句も示しているが、たとえ科学的言説に同調せずとも、科学的な思考手順をヒントに、ものの「内側」を覗く解剖という手法を用いたと考えることは可能だろう。この点を補強するために、「切る」、「切り開く」といった行為が19世紀中葉に持っていた意味にも触れ、Dickinsonの詩作品に見られる「切る」行為と科学的な「切る」行為との交点を探りたい。そして、Dickinsonが受けた教育、特に解剖学、生理学、植物学なども参照しながら、彼女にとって「切る」行為がどのような意味を持つのかを考察したい。具体的に扱うのは、音色の出所を探るべく裂かれるヒバリ、メスを振るう外科医、流される血などが描かれた詩が中心となるだろう。併せて、「切る」、「切り開く」といった行為に、顕微鏡がどのような役割を担っているのかも検証したい。
高尾 直知 中央大学
Herman Melvilleの詩作については、最晩年の Clarel (1876)以外には、あまり多く取りあげられてこなかったが、たとえばLawrence Buellがいうように、Melvilleの詩作は、彼の作家活動の「論理的帰結」として生まれてきたものであり(“Melville the Poet,” The Cambridge Companion to Herman Melville, ed. Robert S. Levine, New York: Cambridge, 1998, p. 135)、Melvilleを語る上で、これから取りあげていかなければならない分野であることは間違いない。なかでも Battle-Pieces and Aspects of War (1866)は、国家を揺るがせた南北戦争というできごとに対するMelvilleの姿勢を考察する上で、最重要の作品である。奴隷制や人種差別の問題、帝国主義的な国家イデオロギーの問題について、さまざまな形でひとの思考の問題を探ろうとし、ひいては散文作品においてはそれを達成することができなかったために、詩作へと向かったとするなら、この作品がMelvilleのヴィジョンを明らかにする上でいかに重要であるかは想像に難くない。
しかし、作品に一歩踏みこむと、そこには、自然と宗教と政治が渾然一体となって展開する濃密な時間が流れていて、読むものを困惑させる。暗雲は来るべき戦乱の予兆であり、激流は不可避的に惨劇に向かう政治状況、嵐は国家を飲みこむ争い、そして人民は暴風雨にもてあそばれる一片の木っ端いかだにすぎない。そのような戦争描写によって、Melvilleは次々と激戦地を歌い上げていく。マナサス、スプリングフィールド、ボールズ・ブラフ、ポートロイヤル、ドネルソン、シャイロ、ミッシッピ河畔、アンティータム、ストーン・リヴァー、ヴィックスバーグなどなど。そこで明らかにされていくのは、アメリカの自然が、いかに宗教的・政治的なイデオロギーによってすでに彩られているかということであり、各地の戦闘をこのようにして歌い上げていくことで、Melvilleはアメリカのジオポリティカルな制度が次々と崩れていくさまを描いているのだといえる。
もしくはこのようにいってもいいかもしれない。Melvilleの詩においては、自然を歌うことと、政治を歌うこととは、等価値である。Melvilleは、自然を叙情的に描写するような韻文で、政治を、戦闘を歌っている。アメリカという国家そのものが、民主主義や共和制といった高邁な理論を掲げているにもかかわらず、実際は常に「新天地」であり「新たなエデン」であるという地理的性質によって成立している。ヨーロッパから隔絶した場所であったがゆえに「独立」が可能になったのであり、かつ、黒人奴隷制をここまで長きにわたって保ち得た。そしてヨーロッパから隔絶していたがゆえに、比較的外的干渉を無視して、徹底的に内戦を戦い得た。
アメリカにとって、自然とは、(戦争も含めた)人間の政治や文化によって規定されるものではない。むしろ、人間の政治文化、そしてひとつひとつの戦乱もが、すべてアメリカという自然によって規定されている。その意味で、アメリカ合衆国の内戦とは、実は人間のおこなう主体的な営為ではなく、自然という運命(もしくは神)によって操られて、おこなわされているにすぎないことなのではないか。自然という戦場があるからこそ、人は戦うのではないか。Melvilleが「補遺」において、南部再建に対する寛容を願うのも、実はこのような運命としての自然に操られたひとの悲劇を知るからにほかならないのだろう。