1. 全国大会
  2. 第45回 全国大会
  3. <第1日> 10月14日(土)
  4. 第1室(58年館5階 858教室)

第1室(58年館5階 858教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
入子 文子

1."The Birth-mark"を読む—超絶主義者 Aylmer と「人間機械」Aminadab

  野崎 直之 : 中央大学(院)

2.The Marble Faun における彫刻の位置

  竹野 富美子

西前 孝

3.拮抗するレトリック—催眠術・錬金術・ The House of the Seven Gables

  小久保 潤子 : 広島国際学院大学

4.メスメリズムと医学的視線—Oliver Wendell Holmes の Elsie Venner と The Guardian Angel

  庄司 宏子 : 成蹊大学



野崎 直之 中央大学(院)


本発表では、Nathaniel Hawthorneの短編 “The Birth-mark”(1843)を考察する。その際、科学者Aylmerが彼の助手Aminadabを形容するのに用いる、「人間機械」という言葉に注目する。その意味で本発表はLeo Marxが The Machine in the Garden (1964)において切り開いた、機械化しゆく社会との関係性からロマン主義文学を考察するアプローチを採るが、同時に発表者はMarxが温存した人間と機械との間の境界線が、“The Birth-mark”においてはぼかされているということも指摘する。

Aminadabの「機械」性を考察する上で、18世紀後半から19世紀初期、医学者、教育者として広範な活動を展開したBenjamin Rushと、19世紀半ばの超絶主義者Henry David Thoreauによる機械という記号の扱い方の相違を参照することが特に有効であると思われる。Rushは1786年(18世紀後半は“The Birth-mark”という物語が展開する時期でもある)、“Of the Mode of the Education”と題する論考において、共和政体という「巨大な機械」を正しく作動させるために市民を「リパブリカン・マシン」へと改造することを提唱した。機械に自制のモデルを求めることで肉体に潜む欲望から精神の自律性を固守することを、Rushは市民に促したわけである。しかしRushのこのアイディアにおいて、個人の自律性が単に共和政体の自律性を支えるものとしてのみ、いわば部品としてのみ重視されているということを看守するのは容易であろう。事実、“Civil Disobedience” (1849)においてThoreauは、機械を政府による専制政治と結び付けて、個人の精神性、ひいては自律性の欠如を示す記号として再定義している。Aylmerが指摘するAminadabの「機械」性とはまさにこの精神性と自律性の欠如にほかならないが、機械に対してThoreauと共通の態度をとり、精神性と自律性を重んじるAylmerは、超絶主義者的人物として規定することが可能である。産業資本主義社会下で推し進められる分業体制に取り込まれる人間を、断片化した身体によって表象するEmerson、Thoreau的慣習を共有するAylmerは、妻Georgianaの左頬にある「手の形をした」痣にAminadabを見つけるのだ。その場合、AylmerはGeorgianaの痣の消去を試みる実験において、Joel Pfisterの指摘するような「中流階級的自己」のみならず、超絶主義的自己信頼の精神に基づく、何ものにも依存しない究極的な自己を確立することを企図したのだということが了解される。

“The Birth-mark”は従来、AylmerとGeorgianaとの関係性を中心に論じられてきた。しかし本発表においては、AylmerとAminadabとの関係性により注目することで、機械、個人の自律性、超絶主義という類推を “The Birth-mark”に見出し、Aylmerによる実験をその類推から考察することを試みる。そのとき、実験の結果には、Hawthorneによる超絶主義へのひとつの応答を見ることが可能になるだろう。


竹野 富美子


Nathaniel Hawthorneの The Marble Faun (1860)は近年、そこに登場する視覚芸術の扱いと共に、そのまなざしに焦点が当てられてきている。Mark A. R. Kemp は当時のイタリアの政治的背景をふまえながら、登場人物Donatelloを他者として描くHawthorneに帝国主義的な視線を見出し、Nancy Proctorは実際に存在していた女性彫刻家たちが、この作品の中では、女性の彫刻として見られる対象へと抑圧されていると論じている。しかし、この作品の視点を分析するためには、一方向的な視線の問題と同時に、Rita K. Gollin も指摘するように、芸術家、芸術作品、そして鑑賞者との相互関係を考慮しなくてはならない。ヒルダの鑑賞能力についての議論や、序文での「同情、共感に満ちた批評家」待望論にも見られるように、Hawthorne は芸術作品の鑑賞に見る者の参加を要求し、それが物語の展開の核となっているからだ

Hawthorne が表現しようとした芸術家、芸術作品、そして鑑賞者との相互関係は、ローマという舞台設定と密接なつながりを持っている。この作品に登場する聖ピエトロ大聖堂やトレヴィの泉といった、鑑賞するためには「空間性と空間の中で、身体の全てを介して感じる」(千葉真智子)ことを必要とするバロック建築は、Hawthorne の考える、鑑賞者と芸術作品の相互関係のための理想的な場を提供しているようだ。「全くのところ、現実にイタリアに行って見なければ、我々アメリカ人は真の大理石とはどんなものか、知ってさえもいないのだ」といった表現、他の場所に移せないモンテ・ベニのワインなど、この小説で繰り返し強調されるのは、このような「ここにいること」「ここに存在して実際に経験すること」の重要性だ。

本発表では The Marble Faun に登場する彫刻とそれを内包するローマという都市に焦点をあて、この小説に見られる空間性、同時性を分析することで、Hawthorneの視線の行方を辿る。「このドナテロの未完の彫像を観照することから、もともと我々の彼の物語に対する関心が生じ」物語が成立したのだと語られるように、この物語の中心には彫刻がある。ペルジアの大広場の中心に座す教皇像、発掘途中のアッピア街道の廃墟に転がる女神像など、彫刻は特定の場所と密接な関わりを持って小説に登場する。「素材を用いて三次元空間に立体形象を造形する芸術形式」(小学館大百科全書)として、彫刻は他の芸術形式よりも、同じ空間を共有する、つまり「ここにいて」鑑賞に参加することが、より必要となると言うこともできるだろう。

絵画は、ここでは彫刻と対比するかのように提示されている。巨匠たちの作品という「富をもっと広く人々の間に普及させ」ようと写生に励み、それらの絵を美術館や礼拝所から「白日の下に持来たらし」「広く人々のものとなさしめ」ようとすることで、彫刻とは反対に、空間を超越する力を秘めているように見えるHilda、彫刻を時代遅れのジャンルと断罪し、「絵画にはもっと巾広さや自由がある」と考えるMiriamは、このロマンスでどのような役割を果たすのか。南北戦争前夜という作品が書かれた時代背景を考慮に入れながら、分析を試みたい。


小久保 潤子 広島国際学院大学


19世紀中葉の時代精神は、当時同時多発的に起こっていた文化の激動の状況を抜きにしては語れない。産業の発達、技術革新、大衆文化の興隆(文化のサブカルチャー化)——19世紀の作家たちはこれら同時代の社会的状況、及びそれに付随する文化的不安をテキストの中に織り込んでいった。なかでも南北戦争前のアメリカのエトスを映し出す重要な役割を果たした文化の一つとして、当時隆盛した一連の「擬似科学」は見逃せない。

Hawthorneの研究史において、彼の擬似科学、とくに催眠術と錬金術への関心の高さはしばしば指摘されてきた。Hawthorneは催眠術と錬金術両方のレトリック(言説)を利用するなかで、両者を差異化し、その特質をプロットに反映させていると考えられる。そして、この使い分けにはセクシュアリティの問題がおおいに関連しているように思われる。本論では、Hawthorneのテキストの中で催眠術と錬金術のメタファがどのように機能しているのか、なぜそのような使い分けがなされているのか、さらにそれらがプロットにどう作用しているのかを考察する。ここでは特に、The House of the Seven Gables の疑似科学者/観察者的人物であるHolgraveと彼の志向対象もしくは「重要な他者」であるPhoebeとの関係を表象する際に用いられるレトリックに注目してみたい。その際、1850年代初期に書かれた他の作品と比較することで、催眠術と錬金術のレトリックの差違化によって織りこもうと目論まれている「言説」が浮かび上がるはずである。

催眠術に対しては、Hawthorneはアンビヴァレントな感情を抱き続けた。一方で他者/対象を自由に操る力を持つ催眠術の危険性を熟知していたため、それを嫌悪し脅威を感じていた。しかしながら対象・他者を自由に操る力を持つ催眠術師に憧憬の念を抱き、作家としてそのようなコントロール力を読者ないし他者に対して持ちたいという願望があったというのもまた否めない事実であろう。それゆえ、テキスト内の催眠術師的人物は完全な悪人というよりはジレンマを抱え込んだ人物として表象されている。ただ問題となるのは、催眠術師は通常男性で、その施術を受けるのは大抵女性であったというジェンダー化された構造である。この関係は、催眠術がジェンダー化された構造を持っているがゆえに、一種のエロスを孕むことにもなる。Hawthorneが催眠術に対して過度の嫌悪と不安を抱いていたのはまさに催眠術が持つエロティシズムに由来しているからだといえよう。

Hawthorneのテキストにおいて、読者/他者を魅了する力として必要されながらも、セクシュアリティの不安をも喚起する催眠術に対するジレンマを解消するために、まさしく有効に作用するのが錬金術の言説であったと考えられる。1850年代初期の作品 ( The Scarlet Letter、The House of the Seven Gables、 “The Golden Touch” ) にはそれぞれ催眠術と錬金術のレトリックが並存している。分析を通じ、テキスト内で催眠術のレトリックと錬金術のレトリックは、拮抗しながら最終的に前者から後者へのシフトが示唆されていることを明らかにしたい。

Hawthorneは擬似科学そのものを否定したのではないが、セクシュアリティに関して不安を感じさせる場合、批判した。セクシュアリティに関して不安定な文化において、また表面上はセクシュアリティを隠蔽しなければならないという文化的エトスを反映して、物理的な男女の接触を想起させる催眠術ではなく、精神的な融合を示唆する錬金術のレトリックを最後には肯定したと考えられる。


庄司 宏子 成蹊大学


Oliver Wendell Holmesの小説第1作 Elsie Venner: A Romance of Destiny (1861)とその続編 The Guardian Angel (1867)は、当時の読者に異様な医学的症例を描いた“a medicated novel”と呼ばれた。Elsie Venner のヒロインElsieは、母親が妊娠中に毒蛇に噛まれたため、先天的に精神的異常気質をもって生まれてきた少女とされ、医学者でもあったHolmesは1830年代に登場する“moral insanity”という精神疾患のカテゴリーに基づいてヒロイン像を構築したと考えられる。また The Guardian Angel のヒロインMyrtle Hazardの神経症は、「複数の先祖の血が彼女の中で衝突している」ためとされ、今日の多重人格の症例を思わせるものとなっている。Holmes作品には、Nathaniel Hawthorneの影響が見られる。蛇娘Elsieには、Nathaniel Hawthorneが描いたBeatrice, Pearl, Georgiana等、人間と異形なものとのハイブリッド・ヒロインが彷彿とし、また西方の土地(Hawthorneの場合は東方の土地)の所有権争い、古い家柄と神経症の女性、結婚による祖先の呪いの解消を描く The Guardian AngelにThe House of the Seven Gables を重ねることも可能である。後年HolmesはHawthorneからの影響を煙に巻くかのように、「自分が父上(の作品)に着想を示唆したことは喜ばしいことだった」とHawthorne家の末子Roseに語っている(Rose Hawthorne Lathrop, Memories of Hawthorne, p. 247.)。

Holmes作品にHawthorne作品が反響するとしても、両者を異なったものにしているのはヒロインに対する前者の医学的視線であろう。Holmesはヒロインを見る/診る視点として医師の視点を用い、その症例を語るのに当時の医学用語を使う。そして彼女たちのヒステリアの特徴(Elsieの場合はその異様な眼、Myrtleの場合は“vision”と称される千里眼)にメスメリズムの要素が現れていることも興味深い点である。メスメリズムはまた、Holmesの医師たちによる彼女たちの診断および治療術ともなる。メスメリズムは女性の他者性を構築すると同時に、その他者性を「患者」として医学の言説に囲い込むときの「正統科学」の道具ともなるのである。フランス人Charles Poyenが西インド諸島での体験を綴った1837年の書から、メスメリズムは砂糖プランテーションでの奴隷労働の管理の術であったことが窺える。そのPoyenによってメスメリズムがニューイングランドにもたらされてから約20年、植民地支配を支えたメスメリズムは、Holmes作品において医学言説によるジェンダー支配の構造へと転換する。メスメリズムの多元性が捨象され、女性の身体と精神を“colonize”しながら正統医学に取り込まれる様子、そこに現れる医師の「想像の共同体」をHolmes作品から明らかにしたい。