変容するエスニシティの表象──アメリカ合衆国におけるマイノリティ文学から
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Stuart Hallは“New Ethnicities”において、これまでの“the dominant notion which connects it[ethnicity] to nation and ‘race’ ” (447)に対し、“a positive conception of the ethnicity of the margins, of the periphery” (447)という、差異を積極的に取り入れた非強制的で多様な形の新しいエスニシティが生じていると指摘する。彼はもっぱら英国における黒人表象を政治的観点から論考しているが、本シンポジアムではこのように変容しつつあるエスニシティについて、アメリカ合衆国のマイノリティ文学を題材に、言語及び文化表象の観点から議論したい。
アメリカ合衆国を代表するマイノリティとしては、アフリカ系、ユダヤ系、先住民系、アジア系、ヒスパニック系などが挙げられる。このうちアフリカ系の場合、アメリカにおける歴史が古いだけでなく、奴隷制度や南部荘園制度との関わりや出身地域の格差など、考慮されなければならない複雑な問題が多い。そこで今回はアフリカ系を敢えて割愛し、ユダヤ系、先住民系、アジア系、チカーノに的を絞った。もとよりアフリカ系アメリカ人の活動を無視できるはずもなく、シンポジアムの際、フロアから有意義なコメントや意見が頂ければ幸いである。
ところで、エスニシティは世代間の継承の在り方や混血の度合いと関連することが多い。一方、継承や混血の在り方はアメリカ合衆国の社会的・経済的状況に大きく左右されてきた。特に、1980年代に入って交通機関や通信機器が飛躍的に発達し、国境を越えた個人・団体のトランスナショナルな関係、グローバリゼーションが加速度的に進み、新しいディアスポラが生じたことは、エスニシティの在り方にも見逃せない変化をもたらした。
さらに、小林憲二が「ポスト・モダニズム現象」と呼ぶ、「現代文化の根源的な流動性のもと、対象領域を狭く限定したり、固定化したりせず、どこまで意識的にジャンルや境界線を〈侵犯〉し、〈越境〉できるか」(275)を重要視する新しい思考・行動パターンもまた、エスニシティを変容させる要因になったと考えられる。
そこで本シンポジアムでは、題材として比較的新しい作品を選び、作品の社会的・文化的コンテクストに配慮しつつ、通事的視点も交えて分析する。これにより、アメリカ合衆国におけるこれまでのエスニシティの在り方を振り返りながら、現在のエスニシティの実像に迫る活発な議論が交わされることを期待したい。
Hall, Stuart. “New Ethnicities.” Stuart Hall: Critical Dialogues in Cultural Studies. Ed. David Morley and Kuan-Hsing Chen. NY: Routledge, 1996. 441-449.
小林憲二、『アメリカ文化のいま』、ミネルヴァ書房、1995。
(文責 新田 玲子)
広島大学 新田 玲子
第二次世界大戦後のユダヤ系アメリカ作家の中でも、Saul BellowやBernard Malamudらが文壇に新風を吹き込んだ大きな要因のひとつは、ユダヤ系移民の貧困体験や、イディッシュ文学に繰り返し登場する愚かな失敗者〈シュレミール〉のイメージなど、明らかに〈アメリカ的でない特徴〉に、道徳性や精神性といった普遍的性質を表象させ、それらがアメリカ合衆国で欠けていたり、軽んじられていることを印象付けた点にある。
しかし、1960年代後半になるとユダヤ系市民の中産階級化が進み、彼らと苦しい移民体験や東欧の貧困生活とが結びつけられにくくなる。さらに、1967年の6日戦争ではイスラエルが圧倒的勝利を収め、パレスチナ人を支配する側に立ったため、ユダヤ人=虐げられる者、苦しむ者、という図式が一層受け入れられ難くなった。実際、それまでは社会的敗者でアウトサイダーという点が強調されていたBellowやMalamudの主人公も、この頃を境に、アメリカ社会の一員としての役目を担うようになる。そしてこの変化に伴い、物質主義的なアメリカ社会との〈差異〉が強調されていた彼らのユダヤ性も薄れてゆくように見える。
しかしここで薄れゆくユダヤ性は、〈アメリカ的なもの〉と対置された、民族性と結びつけられる古いユダヤ性にすぎない。Stuart Hallが“We are all, … ethnically located and our ethnic identities are crucial to our subjective sense of who we are.” (447)と言うような、一人ひとりの個性を作り出す固有な体験という新しいエスニシティの観点からすれば、一見アメリカ社会に溶け込んで見えるユダヤ系作家にもユダヤ性を積極的に活用している例は少なくない。
本シンポジアムではこの新しいユダヤ性が見事な文字芸術に昇華されている例として、BellowやMalamudより若く、ポストモダンの影響も受けているPaul Austerを選び、作家としての彼の基本姿勢が明らかにされる処女長編、The Invention of Solitude (1982)を論じることとした。この作品ではAusterはユダヤ的習慣からの精神的隔たりを繰り返し明示する一方、伝統的なユダヤの〈父から息子への継承〉の構図を作品全体に渡って利用している。この伝統的構図を彼がどのように変容させ、新しい文学表現としているのか、それが作品の表題、〈孤独の発明〉にどう繋がっているのかを分析することで、彼にとってのユダヤ性がどういうものか解明したい。
Hall, Stuart. “New Ethnicities.” Stuart Hall: Critical Dialogues in Cultural Studies. Ed. David Morley and Kuan-Hsing Chen. NY: Routledge, 1996. 441-449.
立命館大学 田林 葉
Gardens in the Dunes (1999)は、次の二点においてこれまでの他の作品と大きく異なっている。第一にこれまでの作品の背景は概ね同時代であったが、ここでは1900年代と約100年前に設定されている。第二に、これまでの作品の主人公が先住民系アメリカ人であったのに対し、この作品では主人公の一人であるHattieは若い白人女性である。
1900年代の先住民の通俗的・社会的な表象は一般的に、「野蛮・未開」な「インディアン」であり、それは文明化の「素材」であり対象であった。その後公民権運動を経て平等主義の理念が普及するにつれ、このような表象は公然とは流通しなくなる。しかし、そのことは「野蛮・未開」の表象が消失したことを意味しない。むしろ、公然とは見られ聞かれることのなくなった差別感情が、個人の内面に封印され、残存し、ときには肥大化し、私的な会話世界でしか姿を現わさなくなる。平等主義が充満する前の時代に舞台を遡及させることにより、この作品は、平等主義の封印を解き、先住民表象の残像を改めて浮き彫りにしたといえよう。
もう一人の主人公Indigoは南西部の先住民Sand Lizardの11歳の孤児である。彼女はキリスト教の寄宿学校に入学したものの逃亡し、Hattieのカリフォルニアの屋敷に迷い込み、その後東海岸からヨーロッパへとHattieの夫とともに旅行に出かける。このような登場人物およびストーリーの設定はいったい何を意味しているのか。
この作品で設定されている裕福な白人女性と先住民の孤児の関係は、大人と子どもの差異(強−弱、保護−被保護の関係)に還元されうるものであり、平等主義の理念に反することはない。大人の白人と先住民の関係が設定されたならば、関係性のリアリティを保つためには、Ceremony (1977)のように、抑圧—被抑圧関係を告発することになっていただろう。成年の裕福な白人女性と先住民の孤児という擬制的関係だからこそ、平等主義の戒律の侵犯を恐れることなく、白人と先住民の関係をリアルに描きだすことができたといえるだろう。
二人が脱セックスの関係であることにも注目したい。生身の人間が触れ合うセックスにおいては、肌の色、質感の違いを敏感に感じざるをえず、エスニシティにかかわりのない格差とそれにまつわる感情が噴出する。大人と子どもが関係しあうストーリーは、セックスにかかわる差異、すなわちコントロールすべき変数をノイズとして消し去り、アメリカ社会における先住民の表象それ自体を描きだす効果をもっているのである。
IndigoとHattieはお互いに愛着を抱きながら別々の道を歩む、これが作品の結末である。この作品は白人と先住民が交わる様を描きながら、その関係の困難性(非−関係性)に光を当てることにより、「先住民」表象の呪縛の強さを改めて示しているのだ。
松山大学 吉田 美津
1976年に出版されたKingstonの代表作The Woman Warrior にみる女武者のイメージから主要な作品の第三作目となるTripmaster Monkey (1989)に描かれる、中国系第五世代の平和主義者Wittmanへの変容の意味を考えたい。The Woman Warrior は、語り手が「若い女性」であるとKingstonも言うように作家の分身と思われる「わたし」が言葉を獲得してゆくエンパワメントの物語である。そのためにKingstonは、父に代わって娘が男装して君主に仕えたという中国の伝承文学「木蘭の歌」の伝説的な女武者である木蘭と、同様に女性でありまたマイノリティであるという二重の束縛をうける「わたし」を重ねることによってアメリカ社会の人種上の差別構造に対して闘う姿勢を示した。
しかしながら、「わたし」のエンパワメントに呼応して娘に強い影響力を与えた母親が後退するとともに、家族と共同体を救うために闘う女武者のイメージは希薄となる。成人した「わたし」は社会に居場所を見いだし、もはや就職の応募書類の“bilingual”の欄に記をつけることもなくなった。The Woman Warrior を作家の誕生物語としてみた場合、副題の“Memoirs of a Girlhood among Ghosts”にある恐ろしい“Ghosts”も、子どもが成人する過程で遭遇する一般的な不安や恐怖の単なる比喩にすぎなかったのだろうかという疑問を抱かせる。背中に復讐の誓いを彫った女武者と自分に共通するのは言葉だとする「わたし」は、“revenge”を意味する漢字がそうであるように“The reporting is the vengeance”(53)だと言う。そうであれば The Woman Warrior は「報告」として意図されていたものが、結果的に作家の誕生物語になっていると考えられる。中国の女武者の話も母親の物語も異質なエスニシティが限りなく無化された作家の声を獲得するために利用されたものにすぎないのだろうか。
The Woman Warrior に続くKingstonの作品はこのような問いに対する答えとして読み解くことができる。Kingstonは、China Men (1980)でアジアとアメリカ合衆国の歴史的な地勢図を背景に中国から移民した曽祖父、祖父そして父親の物語やベトナムに従軍した弟の話を語り、Tripmaster Monkey では、60年代のカウンターカルチャーを背景にコミュニティの活性化にとりくむアメリカ版孫悟空であるWittmanを全知全能の観音菩薩のような視点から語る。Wittmanは最近作 The Fifth Book of Peace (2003)にも登場する。本発表では「わたし」の物語からWittmanの物語への変容の意味を共同体や同胞の人々に対して「報告」する者としての作家の役割において考える予定である。
Kingston, Maxine Hong. The Woman Warrior, 1976. NY: Vintage, 1989.
愛媛大学 林 康次
今回は、1969年の“El Plan Espiritual de ”で表明された「解放の計画」たるチカーノ運動の使命を継承発展させたRudolfo Anaya(1937- )の最近作Jemez Spring (2005)を中心に、エスニシティの問題を考えていきます。
新大陸というユートピア史のなかで歴史と地理を奪われた人々の苦悩をAnayaは心身の「麻痺」と捉えました。ニューメキシコのチカーノの麻痺を「同化」ではなく「解放」へと、Tortuga (1979)からJemez Spring へ展開してきたAnaya文学の全体を構成する要素は以下三点に要約できます。
まずは、エスニシティをめぐるミステリーの追究とその探求の方向としての脱神話化が挙げられます。Jemez Spring を頂点とする四季四部作の探偵Sonnyの謎解きは南西部で繰り広げられますが、その場で、D. B. Polkが詳述した、以来のカリフォルニアからニューメキシコにおける神話を脱神話化する必要が生じます。スペインとアングロ・アメリカの〈マニフェスト・デステニー〉から学ぶAnayaは歴史と地勢の回復の希望——の夢を文学に託します。作者はSonnyに先祖との夢の対話を意図しました。舞台はヨーロッパ近代による「魅惑の島」カリフォルニアという「黄金」幻想の場でした。
次に、Anayaの想像力に関して、HomerのOdysseyを下敷に、ニュー・スペイン/メキシコ/合衆国の砂の海上で冒険を果たし帰郷する「チカーノ・ユリシーズ」としてSonny像を定着させたことに注目しましょう。Homerが父親から息子への希望として自立する息子に「新しいうた」を託したとすれば、チカーノの未来、春の到来を告げる資格ある者としての夢見る人Sonny像はその共同体(Indohispano)の希望を体現する者として意図されている筈です。
最後に、Anaya文学の使命に関して一言触れておきます。Glissantの批評を管啓次郎は、「いわば『結び語り』の詩学、世界を編み上げる同時代的な関係性と報告すべき歴史的意識という二重の焦点をもつ詩学」と的確に解説しています。AnayaのJemez Spring のSonnyとRavenとの対決の物語もエスニシティの限界を超えた「結び語り」の二重性の使命を帯びているようです。
本シンポジアムでは、以上のエスニシティをめぐるミステリーとしてのAnaya文学をグローバルの夢に憑かれた「愚かなアメリカ」におけるローカリズム(言葉、バリオ、歴史)、帰郷、春の三側面から発題します。