松山大学 吉田 美津
1976年に出版されたKingstonの代表作The Woman Warrior にみる女武者のイメージから主要な作品の第三作目となるTripmaster Monkey (1989)に描かれる、中国系第五世代の平和主義者Wittmanへの変容の意味を考えたい。The Woman Warrior は、語り手が「若い女性」であるとKingstonも言うように作家の分身と思われる「わたし」が言葉を獲得してゆくエンパワメントの物語である。そのためにKingstonは、父に代わって娘が男装して君主に仕えたという中国の伝承文学「木蘭の歌」の伝説的な女武者である木蘭と、同様に女性でありまたマイノリティであるという二重の束縛をうける「わたし」を重ねることによってアメリカ社会の人種上の差別構造に対して闘う姿勢を示した。
しかしながら、「わたし」のエンパワメントに呼応して娘に強い影響力を与えた母親が後退するとともに、家族と共同体を救うために闘う女武者のイメージは希薄となる。成人した「わたし」は社会に居場所を見いだし、もはや就職の応募書類の“bilingual”の欄に記をつけることもなくなった。The Woman Warrior を作家の誕生物語としてみた場合、副題の“Memoirs of a Girlhood among Ghosts”にある恐ろしい“Ghosts”も、子どもが成人する過程で遭遇する一般的な不安や恐怖の単なる比喩にすぎなかったのだろうかという疑問を抱かせる。背中に復讐の誓いを彫った女武者と自分に共通するのは言葉だとする「わたし」は、“revenge”を意味する漢字がそうであるように“The reporting is the vengeance”(53)だと言う。そうであれば The Woman Warrior は「報告」として意図されていたものが、結果的に作家の誕生物語になっていると考えられる。中国の女武者の話も母親の物語も異質なエスニシティが限りなく無化された作家の声を獲得するために利用されたものにすぎないのだろうか。
The Woman Warrior に続くKingstonの作品はこのような問いに対する答えとして読み解くことができる。Kingstonは、China Men (1980)でアジアとアメリカ合衆国の歴史的な地勢図を背景に中国から移民した曽祖父、祖父そして父親の物語やベトナムに従軍した弟の話を語り、Tripmaster Monkey では、60年代のカウンターカルチャーを背景にコミュニティの活性化にとりくむアメリカ版孫悟空であるWittmanを全知全能の観音菩薩のような視点から語る。Wittmanは最近作 The Fifth Book of Peace (2003)にも登場する。本発表では「わたし」の物語からWittmanの物語への変容の意味を共同体や同胞の人々に対して「報告」する者としての作家の役割において考える予定である。
Kingston, Maxine Hong. The Woman Warrior, 1976. NY: Vintage, 1989.