1. 全国大会
  2. 第46回 全国大会
  3. <第1日> 10月13日(土)
  4. 第4室(1号館3階 135教室)

第4室(1号館3階 135教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
千葉 義也

1.夢の持続——The Last Tycoon とPat Hobby Storiesにみる映像美学

  田中 沙織 : 大阪大学(院)

2.Ernest Hemingway作品におけるメランコリーについて

  田村 恵理 : お茶の水女子大学(院)

村上  東

3.「失われた」 A Moveable Feast ——Mary Hemingwayの編纂方法とその問題点

  杉本 香織 : 早稲田大学

4.In Our Time に隠された“a pretty good unity”

  幡山 秀明 : 宇都宮大学



田中 沙織 大阪大学(院)


F. Scott Fitzgeraldの遺稿 The Last Tycoon (1941) と17篇の短篇からなるPat Hobby Stories (1940-41) はドリームファクトリー、ハリウッドを舞台とする。The Great Gatsby の簡潔な構成を再現しながらも、「何か新しいもの」を喚起する傑作を志向した The Last Tycoon と、金のために書いた玉石混淆のPat Hobby Storiesに対するFitzgeraldの視点は対照的である。このことは芸術性と商業性という映画の持つ二面性と重なる。しかし、未編集のフィルム片のような断章が散在する未完の前者と、“Boil Some Water — Lots of It”との表題どおりpotboilerの後者には、他の秀作と並びうる文学性があるとは断言しがたい。DixonがThe Last Tycoon は言葉による視覚描写を最小限に抑え、映像に翻訳させる脚本に近いと論じるように、映像性を喚起し、映画用語が鏤められる両作品は純粋な文学としてではなく、文学と視覚芸術の中間領域として評価できるのではなかろうか。

「最後の大君」たるプロデューサーMonroe Stahrとの脚本家Pat Hobbyは正反対の主人公だが、Monroeは亡き妻Minnaの面影をKathleenに見出し、Patは旧き良きサイレント時代をしばしば夢想する。つまり、監督の「カット!」の声とともに束の間の夢が消失し、虚ろな現実が表出する映画界に生きる2人はフラッシュバックする過去の映像、“an imaginary past”を独自の映画的な眼差し、主観カメラを通して夢見るのだ。この一人称の眼差しこそが両作品のスタイルに影響を及ぼすのではなかろうか。同じく過去の夢を主題とした“Winter Dreams”とThe Great Gatsbyでは夢の持続は非常に長く、夢が消える段階で物語は終わる。しかし、短篇“The Diamond as Big as the Ritz”と“Basil and Cleopatra”の破片をもモンタージュに合成するThe Last Tycoonと、ジャンプカットのように画面の切り換えが突然起こるPat Hobby Storiesにおいて夢の持続は儚い。このことは無数のショットを繋ぐ映画の構造に類似する。本発表は夢と現実のシークエンスを支える編集、撮影法、照明といった映像美学に焦点を合わせ、両作品の芸術性を再評価する。「何か新しいもの」=映像美学がある前衛的な両作品はFitzgeraldのヌーヴェルヴァーグと呼びうるだろう。


田村 恵理 お茶の水女子大学(院)


Hemingway作品の多くにおけるcharacter同士の関係には性的なタブーが大きな影響を与えており、その違犯への憧れが「異文化」社会への描写に執拗にあらわれてくる。更にその憧れの深層に、characterの持つ「喪失したはずの直接性へのmelancholy」を読み取ることができる。Hemingway作品のcharacter構成を概観するうえで重要なこの点について検討するため、以下の3点に大きく分けて発表をおこなう。


I. Melancholy

異文化として扱われるコミュニティーにまつわる描写に注目し、そこに潜む書き手のmelancholyをFreud、Lacan等の精神分析理論を使用して読む。“Fathers and Sons”、 “The Battler”、True At First Light 等、IndianやAfricaにつながる人間関係を扱ったものを中心に分析する。これらの社会は「象徴界以前の直接性を持ったもの」としてとらえられている。そして、主人公はその直接性を「かつては持っていたのだが喪失してしまった」と思い込んでおり、その回復を求める態度がテクスト上に抑圧されたかたちで残されている。これらの社会の描写において犯されるタブーincestとhomosexualityに着目し、その目撃者となる主人公がとらわれる禁止の法の構造を考え、その抑圧に対する昇華が、長編作品やNick Adams Storiesをはじめとした多くの作品におけるヒロインの表象とそれを取り巻く人物関係に及ぼす影響を考える。


II. A Sense of Loss

I.で無意識的に憧れの対象となる直接性が意図的にgrotesqueに描かれていることに着目し、喪失の感覚に関してvirginity、信仰の問題と絡めて考察する。I.で扱った作品に“An Alpine Idyll”、 “God Rest You Merry, Gentlemen”、 “The Gambler, the Nun, and the Radio”も加えて考える。信仰が直接性を阻む一つの大きな要因として働いている構造を明らかにする。


III. Fantasy

これら異文化社会へのまなざしに含まれるfantasyをpostcolonial的な視点から考察し、この観点から見た場合におけるHemingwayのもろさを指摘する。禁止の法への違犯にあふれた異文化社会の描写が、あくまでも他者の目から見たfantasyの域を超えるものではないということなのだが、同時にむしろその域を意識的に超えまいとしている態度についても分析する。作品における異文化社会の存在意義に関して、直接性へのmelancholyの観点からも考えを加えることで、postcolonial的な視点のみで批判して終わる従来の批評から一歩進んだ展開で考察する。


杉本 香織 早稲田大学


A Moveable Feast はErnest Hemingway(1899-1961)が1957年から60年にかけて断続的に執筆、彼の死後、妻Maryによる編纂を経て、1964年に出版された「パリ・スケッチ集」である。1920年代前半を舞台にした計20章からなるこの作品では、作家として駆け出しだったHemingwayの、貧しいながらもFitzgeraldやGertrude Steinらといった先輩作家との親交に満ちたパリ時代が鮮やかに再現されている。特に第3章で紹介されるSteinのセリフ「あなたたちは失われた世代です(You are a lost generation)」は、Hemingwayの最初の長編小説 The Sun Also Rises (1926)でも用いられ、第一次大戦時に青年期を迎えた世代を象徴する言葉として普及されるまでになった。

しかしこの作品は果たして、1920年代当時のパリとHemingwayを映し出すだけの「スケッチ集」なのだろうか。Hemingwayが遺した複数の序文および跋文の草稿には、想起される事柄の可変性と操作性、そしてこの作品がfictionであることが繰り返し述べられている。これらから垣間見えるのは、「20年代の等身大のHemingway」というより、むしろ20年代の自身を操ろうとする「50年代のHemingway」の姿である。ところが多くの先行研究は、この作品がnonfictionであることを前提に、作中のエピソードと彼の伝記的事実との照合に躍起になっているきらいがある。

この傾向を生み出した要因のひとつは、A Moveable Feast を編纂したMaryの編纂方法にあったというのが私見である。ボストンにあるJFK図書館内「ヘミングウェイ・コレクション」には、当作品のオリジナル原稿が所蔵・公開されており、序文や跋文の草稿だけでなく、彼女によってカットされた章や語句の修正痕など、Mary編纂の形跡を細かく追うことができる。そしてそれらを検証していくと、彼女がオリジナル原稿から「50年代のHemingway」を切り離し、「20年代のHemingway」のみを前景化しようとした思惑が浮かび上がってくる。

そこで本発表では、Maryの編纂方法を検証することにより、この作品に対するHemingwayの作意が、彼女によっていかに「失われた」かを明らかにしていく。具体的には、彼女による章の入れ替えや、主人公Hemingwayを指す人称のゆらぎ(you / I)の統一、および複数の場面・文章のカットがオリジナル原稿に及ぼした影響を考察する。また人称の問題については、同じく人称のゆらぎが見られる他の死後出版作品群の中に位置づけることにより、Hemingwayが後年の作品において構築しようとした公的な「Hemingway像」の推移を追っていきたい。


幡山 秀明 宇都宮大学


Hemingwayの In Our Time (1925) に関して、個々の短編の作品分析の他に中間章のソース、原稿段階での変更等、テクスト生成過程についても詳細な研究がなされてきている。特に、作者本人の言及した “a pretty good unity” を巡ってテクスト全体の構造やパターンが考察され、短編連作集としての各中間章や各短編の有機的関連性が指摘されていることが興味深い。例えば、W. E. TetlowはHemingway’s In Our Time (1992)の中で、Nickの負傷を示す6章を転換点としてテクストをその前後の2つに分けているが、果たして妥当であろうか。

旧約聖書を連想する要素として、エデンの園やリンゴについての指摘は既になされてきているが、それだけには止まらず「創世記」が構造的かつ内容的にも In Our Time の統一原理になっていると考えられる。アダムとイヴの失楽園の際に、神により女には「産みの苦しみ」、男には「生存の試練」が宿命づけられるが、それが In Our Time の物語内容の根幹となり、強調されている。また、7日間に及ぶという神の天地創造の7が基本数となり、14の短編が配列された、誕生と喪失と再生の物語であるとすると、中間章やその中の6章の理解も変わってくるだろう。例えば、1910年から23年まで14年間における少年期からの成長、そして子供の誕生を控え、青年から父親になろうとしている、また、作家になろうとしている男の話を前景とすれば、その背景となるのは、第1次世界大戦やそれに続くギリシャ・トルコ戦争であり、特にその両者の争いは19世紀初頭のギリシャ独立戦争に止まらず、さらにはトロイ戦争にまで遡る戦いの歴史である。大団円の前のクライマックスともいうべき6章は、Nickを介してこうした歴史的背景を前景化する。ここで重要な点は、歴史の舞台へと躍り出たはずであるにもかかわらず、負傷兵となってしまった男の蟻のような無力さであり、そして、それが次の短編、7日目の安息となるはずが皮肉な帰郷となる話へと続いていく。

こうした隠された統一原理を見抜いたと思われるJohn Barth は、そのポストモダニズム版とも言うべき、14の話からなる「シリーズ」としてLost in the Funhouse (1968)を構成しただろうと推察され得る。バース流の捻りが「メビウスの輪」となり、自己喪失の場は戦争ではなく「鏡の迷路」となり、ともに自伝的人物と言われるが、アダムズがメンシュとなり、絵画的または映像的描写が、多様な語りの実験室となる等、両作品はさらに比較検討される必要があり、そこからもまた新たな問題が現れてくるだろう。