幡山 秀明 宇都宮大学
Hemingwayの In Our Time (1925) に関して、個々の短編の作品分析の他に中間章のソース、原稿段階での変更等、テクスト生成過程についても詳細な研究がなされてきている。特に、作者本人の言及した “a pretty good unity” を巡ってテクスト全体の構造やパターンが考察され、短編連作集としての各中間章や各短編の有機的関連性が指摘されていることが興味深い。例えば、W. E. TetlowはHemingway’s In Our Time (1992)の中で、Nickの負傷を示す6章を転換点としてテクストをその前後の2つに分けているが、果たして妥当であろうか。
旧約聖書を連想する要素として、エデンの園やリンゴについての指摘は既になされてきているが、それだけには止まらず「創世記」が構造的かつ内容的にも In Our Time の統一原理になっていると考えられる。アダムとイヴの失楽園の際に、神により女には「産みの苦しみ」、男には「生存の試練」が宿命づけられるが、それが In Our Time の物語内容の根幹となり、強調されている。また、7日間に及ぶという神の天地創造の7が基本数となり、14の短編が配列された、誕生と喪失と再生の物語であるとすると、中間章やその中の6章の理解も変わってくるだろう。例えば、1910年から23年まで14年間における少年期からの成長、そして子供の誕生を控え、青年から父親になろうとしている、また、作家になろうとしている男の話を前景とすれば、その背景となるのは、第1次世界大戦やそれに続くギリシャ・トルコ戦争であり、特にその両者の争いは19世紀初頭のギリシャ独立戦争に止まらず、さらにはトロイ戦争にまで遡る戦いの歴史である。大団円の前のクライマックスともいうべき6章は、Nickを介してこうした歴史的背景を前景化する。ここで重要な点は、歴史の舞台へと躍り出たはずであるにもかかわらず、負傷兵となってしまった男の蟻のような無力さであり、そして、それが次の短編、7日目の安息となるはずが皮肉な帰郷となる話へと続いていく。
こうした隠された統一原理を見抜いたと思われるJohn Barth は、そのポストモダニズム版とも言うべき、14の話からなる「シリーズ」としてLost in the Funhouse (1968)を構成しただろうと推察され得る。バース流の捻りが「メビウスの輪」となり、自己喪失の場は戦争ではなく「鏡の迷路」となり、ともに自伝的人物と言われるが、アダムズがメンシュとなり、絵画的または映像的描写が、多様な語りの実験室となる等、両作品はさらに比較検討される必要があり、そこからもまた新たな問題が現れてくるだろう。