田中 沙織 大阪大学(院)
F. Scott Fitzgeraldの遺稿 The Last Tycoon (1941) と17篇の短篇からなるPat Hobby Stories (1940-41) はドリームファクトリー、ハリウッドを舞台とする。The Great Gatsby の簡潔な構成を再現しながらも、「何か新しいもの」を喚起する傑作を志向した The Last Tycoon と、金のために書いた玉石混淆のPat Hobby Storiesに対するFitzgeraldの視点は対照的である。このことは芸術性と商業性という映画の持つ二面性と重なる。しかし、未編集のフィルム片のような断章が散在する未完の前者と、“Boil Some Water — Lots of It”との表題どおりpotboilerの後者には、他の秀作と並びうる文学性があるとは断言しがたい。DixonがThe Last Tycoon は言葉による視覚描写を最小限に抑え、映像に翻訳させる脚本に近いと論じるように、映像性を喚起し、映画用語が鏤められる両作品は純粋な文学としてではなく、文学と視覚芸術の中間領域として評価できるのではなかろうか。
「最後の大君」たるプロデューサーMonroe Stahrとの脚本家Pat Hobbyは正反対の主人公だが、Monroeは亡き妻Minnaの面影をKathleenに見出し、Patは旧き良きサイレント時代をしばしば夢想する。つまり、監督の「カット!」の声とともに束の間の夢が消失し、虚ろな現実が表出する映画界に生きる2人はフラッシュバックする過去の映像、“an imaginary past”を独自の映画的な眼差し、主観カメラを通して夢見るのだ。この一人称の眼差しこそが両作品のスタイルに影響を及ぼすのではなかろうか。同じく過去の夢を主題とした“Winter Dreams”とThe Great Gatsbyでは夢の持続は非常に長く、夢が消える段階で物語は終わる。しかし、短篇“The Diamond as Big as the Ritz”と“Basil and Cleopatra”の破片をもモンタージュに合成するThe Last Tycoonと、ジャンプカットのように画面の切り換えが突然起こるPat Hobby Storiesにおいて夢の持続は儚い。このことは無数のショットを繋ぐ映画の構造に類似する。本発表は夢と現実のシークエンスを支える編集、撮影法、照明といった映像美学に焦点を合わせ、両作品の芸術性を再評価する。「何か新しいもの」=映像美学がある前衛的な両作品はFitzgeraldのヌーヴェルヴァーグと呼びうるだろう。