1. 全国大会
  2. 第50回 全国大会
  3. <第2日> 10月9日(日)
  4. シンポジアムⅡ(中四国支部発題)(D302教室)

シンポジアムⅡ(中四国支部発題)(D302教室)

ヘンリー・ジェイムズとその時代——経済、メディア、テクノロジー

司会・ 講師
梅光学院大学 堤 千佳子
『鳩の翼』 欲望を刺激するもの
講師
お茶の水女子大学名誉教授 海老根静江
The Ivory Tower のNewport
島根大学 中井 誠一
プライバシー境界のゆらぎ—近代ジャーナリズムとThe Reverbrator
ノートルダム清心女子大学 中村 善雄
電灯、電信、スペクタクル—ジェイムズ作品にみるテクノロジーの表象



21世紀に入って、ヘンリー・ジェイムズとその作品を振り返ってみると、いろいろな範疇に分類されながらジェイムズ研究は行われてきた。作品についても著者自身についてもはや研究され尽くしている感がある。1843年に生まれ、1916年にこの世を去ったジェイムズの最晩年の未完の作品のThe Sense of the Past とThe Ivory Tower のどちらも1917年に出版された。まさに19世紀と20世紀にまたがる作家である。今どのような視点からジェイムズを読み直そうか考えたとき、講師の脳裏に浮かんだのは19世紀における社会の変化をキーワードとするということであった。

ジェイムズは通常モダニズム小説と言われる範疇より早く、19世紀から活躍していた小説家であるが、リアリズム、ヴィクトリアン、エドワ—ディアン、アメリカ的ロマンス性などのいずれも一つの範疇ではとらえきれない。

Christopher ButlerのModernism の中にmodernityとは “…, the rise of our dependence on science and technology, the expansion of markets and the commodification brought about by capitalism, the growth of mass culture and its influence, the invasion of bureaucracy into private life, and changing beliefs about relationships between the sexes”(1)という記述がある。まさにこれは講師陣が今回ジェイムズを捕らえなおそうとしている視点そのものである。各自が選んだ切り口から、歴史、社会、文化の動きとジェイムズの結節点により、ジェイムズという作家の特質を明らかにしようとする試みである。



梅光学院大学 堤 千佳子

 

ジェイムズの円熟期の3部作の一つ、The Wings of the Dove (1902)については経済的要素を強く持つ作品としてみなされることは周知の事実である。ここで言う経済的要素とは消費社会の枠組みの中で、登場人物たちが商品としてみなされ、交換経済という観点からプロットが進められるということである。

この作品においては主人公Milly Thealeについて、彼女の財産を狙うKate Croyによって、富や資産としての位置づけが繰り返しなされている。財力を示す手段は「閑暇と財の顕著な消費」(Veblen)であるとされるが、Millyの宝石、ヴェニスの宮殿などは「顕示的消費」を象徴するものに他ならない。商品は外見で自らの価値を語るものなので、Millyの価値は彼女の所有する財産、あるいはそれによってもたらされる彼女の付属物によって語られることとなる。死と隣り合わせの彼女の病は本来ならば、彼女の商品価値を貶めるものであるはずだが、彼女は避けがたい死によって相手に遺産を贈るという媒体にもなっているため、KateやLord Markなど彼女の財産を狙うものにとっては逆に彼女の価値をさらに高めるものとなる。

但し、Kate自身も父や叔母によって彼らの益となる持ち駒、商品としてみなされている。ただ彼女は自分自身の価値観、意思を堅持するため、他者を欺く演技によってその本質を守ろうとしている。その一方で恋人Densherとの関係において、彼女の真意を測ろうとするDensherからの要求によって、彼の協力を取り付ける代わりに関係を持つという、交換経済的に見て自らの商品価値を認識し、それを活用している。

Millyという存在、その財産が他者の欲望を刺激する。Millyを中心として、その周囲の人間の視線が交錯する中に、さらに様々な欲望が生じ、人々を動かしていく。自らの欲望を隠蔽するために、人は演技をし、演技という虚偽が真実に変質し、関係を不可逆的に変化させていく。

その一方でこの作品にはジェイムズの他の作品よりもアレゴリーが多く用いられ、Millyのイメージも「王女」や「鳩」のようにロマンス性を帯びている。しかもどちらも財を結びついてもいる。この作品の中で扱われている様々な消費、欲望の姿、経済的活動について読み解いていきたい。


お茶の水女子大学名誉教授 海老根静江

 

1916年Henry Jamesが亡くなった時、二つの未完の小説、The Sense of the Past と The Ivory Tower が残された。予定のほぼ三分の一の完成を見た『象牙の塔』の舞台は若き日の記憶からすっかり姿を変えたNewportである。長い不在の後に再訪したジェイムズの目に「小さな、何も持たない、開いた手」が突然無理やりに金を握らされている(The American Scene)と映ったニューポートは、1871年のスケッチや短編に描かれ、1910年の兄Williamの死直後から着手された自伝のNotes of a Son and Brother においてはMinny Templeの追憶とも重ねられたひなびた趣のあるニューポートから一変し、鉄道王Vanderbilt一族の二つの大邸宅をはじめ途方もない富を顕示する建造物が幾つも存在する土地になっていた。

夏目漱石の『明暗』にも似てジェイムズの新たな展開を予感させながら肝心の部分まで辿りついていないような『象牙の塔』を論じるのは難しい。The Golden Bowl のAdam Ververの背後にある富の力についてジェイムズが踏み込んだ考察を実行しようとしたと感じさせる作品であり、未完であることに「喪失感を覚える」(Alan Hollinghurst)のであるが、ヒロインRosanna Gawが最終的に意味するに至るものはわからず、『象牙の塔』のキャビネットというシンボル、そこに隠された書類の謎についての手掛かりは与えられない。主人公Graham Fiedler、DaveyとGussyのBradham夫妻、陰謀的なHorton VintとCissy Foyのカップルのおりなす関係、予定されていたニューヨークとレノックスという二つの土地が果たしてどんな形で生かされたのか、結局そもそも完成の可能性がなく、或いはひょっとして手ひどいアンティクライマックスが待っていたのかもしれないなどと考える読者は、10章中の第4章に入ってすぐにセンテンスの途中で置き去りにされるのである。

それでもこの作品にはジェイムズが19世紀とともに20世紀の作家であり、モダニズム文学とはまた違ったものを目指していたことを示している。「金」の力への新たな洞察という視点と作品の舞台であるニューポートの意味について、ジェイムズによる二種類の覚え書を資料とし、バルザックとゾラの金融小説も視野に入れて論じてみたい。


島根大学 中井 誠一

 

ヘンリー・ジェイムズは極めて韜晦的な作家であるが,それは作品を何重にも覆っている謎めいたベールがしばしば読者の鑑賞を妨げているということからだけでなく,自らの人生という彫刻に施した分厚い化粧漆喰が人物像の把握を困難にしているということもある。たとえば,"The Aspern Papers"で描かれた,あらゆる手段を弄して有名作家の手紙を手に入れようとする文学研究者の行動は,ジェイムズにとって,プライバシーの境界を越える象徴的な事例であり,私生活におけるプライバシー侵犯への不安が窺われるモチーフである。実際,ジェイムズは自らの私生活の一部が死後において漏えいすることを恐れたのか,Constance Woolsonとの間の書簡を破棄していたという周知の事実もある。しかし,Aspernの手紙の探索,あるいは "The Figure in the Carpet"におけるGwendolenの作品のテーマを巡る探求の顛末は,逆に言えば,秘められた真実を探り,それを大衆/読者の前に提示することがジャーナリスト/文学者の本質であることを,ジェイムズが痛切に感じていたことを暗示するものでもある。こうしたプライバシーの問題を真正面から扱ったThe Reverbrator (1888)において,新聞記者George Flackは,Francinaを誘導してProbert家の内実をしゃべらせ,それを自分の新聞で暴露することによって,彼女とGastonとの婚約を解消させようとした利己的な人物という評価が一般的である。しかし,Flackの記事内容は明確にされていないが,一旦「真実」を知った新聞記者という立場に立てば,それを封殺してしまうことは,ある意味でジャーナリズムの本義に背く行為であるともいえる。

Samuel D. WarrenとLouis D. Brandeisが"The Right to Privacy"(1890)でプライバシー権を初めて定義したように,作品発表当時は,まだプライバシーの概念自体が確立していなかった。一方で,近代資本主義の発展に伴い,新聞・雑誌の部数は飛躍的に伸び,広告収入と購読者を獲得するため,扇情的な記事合戦を繰り広げるYellow Journalismを迎えようとする時代でもあった。ジャーナリズムとプライバシーという,現代にも通じるテーマを扱ったこの作品は,当時のプライバシー境界のゆらぎを微妙に反映していると思われる。そして,単なる境界侵犯への憤慨や不安ということだけでなく,それを超えたジェイムズの,その時代,そして未来に対する,作家としての戦略を読み取ってみたい。


ノートルダム清心女子大学 中村 善雄

 

Henry Jamesが19世紀後半から始まる大量消費社会の諸相を物語る一種の文化史家的側面を有していることは、Jean-Christophe Agnewの “The Consuming Vision of Henry James” を一つの嚆矢として、Jennifer WickeやRichard Salmonといった多くの研究者たちによって、浮き彫りにされている。そして、Jamesはこの新たな時代の様相を、現実的/修辞的レベルの両方において、テクノロジーに関連する語で描き出していることが多い。今回の発表では特に19世紀に実用化された電灯と電信という2つのテクノロジーに注目してみる。

電灯は“In the Cage”(1898)やThe Ambassadors (1903)といった作品において、曖昧な表現ながらも、その存在が認められる。Jamesは後者においてパリの照明を「輝かしい都市の偉大な光」と表現し、Edward Warrenに宛てた手紙のなかでは、パリの特徴として「慢性的な博覧主義」と「光の美」を挙げている。ガス灯から「光の美」と象徴される電灯への移り変わりはパリをいわば光学の都市空間へと変貌させ、The Ambassadorsの主人公Stretherがそのスペクタクル世界に幻惑・翻弄される様子を読み取ることができる。

一方電信は、Richard MenkeがThe American (1877)からThe Ambassadors (1903)にいたる作品群のなかでプロットの形成や通信の点から重要な媒体であると指摘しており、多くの作品で使われている。主にそれは、「国際テーマ」を象徴するかのように大西洋横断ケーブルを介したコミュニケーション手段として使用されているが、一方では電信の有する隠蔽/暴露の両義性に焦点が当てられている。特に、電報を主題とした短編 “In the Cage” (1898)では、女電報技手が電報解読に没頭するあまり、現実/虚構、主体/客体、内/外の関係を曖昧化し、自らが望むスペクタクルな虚構を構築していく姿が描写され、ポストヒューマンへの可能性さえ示唆されている。

本発表では上で挙げたThe Ambassadorsと“In the Cage”を中心に、電灯や電信によって生み出される世界観や、登場人物たちのそうした世界への反応および彼らの意識の変容について考察し、最後にJames自身のテクノロジーに対する観念を探っていきたい。