1. 全国大会
  2. 第50回 全国大会
  3. <第1日> 10月8日(土)
  4. 第9室(D501教室)

第9室(D501教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
竹島 達也

1.「日本の悲劇」を演じる——Madame Butterflyにおける機動(不可能)性

  天野 貴史 : 大阪大学(非常勤)

2.Finishing the Pictureで劇を書き終える

  佐伯 惠子 : 県立広島大学

貴志 雅之

3.Geoffrey NaufftsのNext Fallに見るゲイ/エイズ演劇の現在

  藤田 淳志 : 愛知学院大学

4.Tennessee Williamsと前衛

  戸谷 陽子 : お茶の水女子大学



天野 貴史 大阪大学(非常勤)

 

19−20世紀転換期における舞台空間は、国民と国家を媒介し総合するメディアとして機能していた。本発表ではDavid BelascoのMadame Butterfly (1900)を取り上げ、演技と内容の両面において、国家の帝国主義的な運動が——対抗的な運動の可能性を封じ込めようとする企図とともに——この戯曲には反映されていることを論証する。

Madame Butterflyの上演に関して注目すべき事実は、主役の蝶々夫人を演じたのが日本人ではなかったということである。演じたのは「カリフォルニアの娘」Blanche Bates。乗馬を得意とする体の大きな女性で、個性が強く、とても芸者の役には向いていなかった。そこでBatesに芸者のいろはを指導したのが、彼女の家政婦で日本人移民のSukiだった。BatesはSukiを蝶々夫人の「オリジナル」と呼び、「私はSukiのすべてを舞台で真似た」と告白している。ならば、なぜ、蝶々夫人の役として「オリジナル」よりも「カリフォルニアの娘」が採用されたのか。

Batesは〈新しい女〉の象徴だった、とMari Yoshiharaは述べる。明快な指摘だが、女優という職業が顕示する「機動性」を見落としている。すなわち、家庭という「私」の領域から舞台という「公」の空間への不道徳な越境により〈娼婦〉のレッテルを貼られた女優が、なぜ、海の向こうの日本人を演ずれば〈新しい女〉として称賛されるのか。重要なのは、白人女優の人種・国境横断的パフォーマンスと「帝国の機動性」(Amy Kaplan)が連動し、共振していた点である。また、Sukiのその後にも注目しなければならない。「オリジナル」として蝶々夫人を演じる機会を与えられなかった彼女は、まもなく、家政婦という領域に留め置かれたまま他界する。Batesの機動性はSukiのそれの否定の上に成り立っていたのである。

こうした機動性の不均衡な配分は、作品の内容において、蝶々夫人とKateという対照的な二人の女性の性格に反映されている。蝶々夫人の部屋には、Pinkertonが残したスリッパが神棚に飾られている。このスリッパが、大澤真幸の用語を借りれば、「第三者の審級」の代理表象として機能しているがゆえに、蝶々夫人は「マダム・バタフライ」を演じるという規範に従わざるを得ない。他方、Kateは〈新しい女〉の機動性を十二分に発揮する。日本という異国の地に足を踏み入れた彼女は、夫Pinkertonを土着化から救出するという英雄的冒険を成し遂げるのみならず、蝶々夫人が産んだ夫の子を引き取ることによって、将来の脅威の可能性を——子供の名前は「トラブル」——あらかじめ封じておくことを画策するのである。

したがって「日本の悲劇」を演じる女優は自家撞着を起こすことになる。人種、階級、文化、地理などの境界を容易に越えることができる機動性を有する近代的な女優が、にもかかわらず、そうした機動性を否定された他者を演じなければならないのだから。外部に向かう国家の運動が内部における国民の形成にもたらした影響——その一端を、われわれは、白人女優の機動(不可能)性に確認することができる。


佐伯 惠子 県立広島大学

 

Finishing the Picture (2004)はArthur Miller (1915-2005)最後の劇である。Millerが妻Marilyn Monroe (1926-62)のために書いた最後の映画The Misfits (1961)の制作終盤の出来事を描いている。往年の傑作The Death of a Salesman (1949)やThe Crucible (1953)とは比べるべくもない作品であり、劇評も絶賛とは程遠い。しかし、映画制作の裏側や睡眠薬漬けになったMonroeの様子や映画完成直後に決裂したMillerとの関係などが描かれた劇ということで、大衆やメディアの注目を浴びた。事実、本作品には、Monroeを始めとしてThe Misfitsの関係者を想起させる人物が軒並み登場する。自伝Timebends (1988)の再現とも思えるエピソードも多々見られる。Monroeの死後早い時期に書かれたAfter the Fall (1964)と合わせて、Millerは実人生との関連を否定しているが、それを鵜呑みにはできないほどに重なり合う部分が多い。

しかし、パーソナルな色合いの濃い作品であるということを別にして、Finishing the Pictureeを、その前のResurrection Blues (2002) と合わせて読むと、Miller晩年の作品としての共通点が浮かび上がってくる。Resurrection Bluesは、中南米の架空の国を舞台とし、政治色が極めて強く、毒のある諷刺と笑いを含んだ社会派の作品である。一方、Finishing the Pictureは、上述のように極めて自伝的個人的で、狭い世界を凝縮した内容をもつ。一見すると、舞台設定もテーマも劇の雰囲気も大きく異なるが、両作品には次のような共通点が見られるのである。

  1. 核となる人物(Resurrection BluesのRalph, Finishing the PictureのKitty)は、周囲の人間にとって破壊者であると同時に救済者でもあり、しかし、当人は悩める心を抱えたひとりの弱き者でしかない。
  2. 核となる人物自身は舞台上に全く、あるいはほとんど姿を現わさず、喋りもしない。むしろ、彼らの不在や沈黙をスクリーンとして、他の人物の感情や思惑を投影するという、これまでのMiller作品には見られない手法が用いられている。
  3. 社会派作家であると同時に、個人的体験を色濃く作品に投影してきた作家でもあるという2つの特徴は、各々の作品において、その表れ方がこれまでになく顕著である。

85歳を過ぎてなおMillerは、作品に新しい手法を取り入れ、社会派作家として、また、ひとりの個人として言うべきこと、言いたいことを確かに言い切った。そのことを明らかにしつつ、対をなすとも言える最後の2作品の中に劇作家Millerの晩年の特徴をたどることが本発表の主目的である。上記3つの観点から、Resurrection Bluesと比較しながら、Finishing the Pictureを中心に分析してゆく。


藤田 淳志 愛知学院大学

 

本発表ではGeoffrey NaufftsによるNext Fall(2009)を論じる。この作品を1980年代後半から90年代のエイズをテーマとした一連の演劇作品の延長線上にあると捉え、アメリカ演劇において重要なテーマであり続けるホモセクシュアリティがポストエイズの時代にどの様に描かれているのか、これからどのように描かれていくことになるかを探る。また代表的なエイズ演劇や作品中で言及されるThornton WilderのOur Townにも触れ、比較を試みる。

Naufftsは現在1986年に結成され多くの俳優や劇作家らを輩出する劇団Naked Angelsの芸術監督を務めている。しかし劇作家としてより映画やテレビの俳優としてその名を知られ、出版されている作品はこの他に短編が一つあるだけである。Next Fallは2009年オフ・ブロードウェイでオープンし、その後Elton Johnらのプロデュースによりブロードウェイに上がった。劇評も良くトニー賞2部門にノミネートされている。

Next Fallの主人公は見た目も人生もぱっとしない45歳のAdamと、ハンサムで俳優志望の30歳のLukeのゲイカップルである。2人のさらに大きな違いは、Lukeは熱心なキリスト教徒で、Adamは無神論者であることだ。Lukeは同性愛が罪であり、神を信じなければ天国へ行けないと考え、Adamは2人の愛の証であるはずのセックスの後に許しを乞うために祈るLukeに不満を感じる。

物語はLukeが交通事故に遭い運ばれた病院の待合室で幕を開ける。その後2人の5年前の出会いから前日までの過去と、病院での現在がシーンごとにほぼ交互に描かれていく。過去のシーンではAdamとLukeがカップルとしての関係を築く過程が宗教観の違いを中心にユーモラスに描かれる。現在の病院では深刻な状態のLukeを待つ、AdamとLukeの両親、そして駆けつけた2人の友人とのやりとりが、こちらもしばしばユーモラスに描かれる。しかしLukeは両親にAdamとの関係ばかりか自身のセクシュアリティも告げていないため、Adamは危篤状態のLukeに会うこともできない。

New York TimesのPatrick HealyはNext Fallを含め同時期にニューヨークで公開される7つのゲイプレイの特徴を、その政治性よりも同性愛を普遍的なものとして示すことにあると述べている("New Gay Theater Has More Love Than Politics")。確かに本作では同性愛に対する重要なテーマ (キリスト教的価値観、パートナーを見舞う権利、カムアウトとホモフォビアなど)が描かれてはいるものの、これらは声高に叫ばれておらず押し付けがましくない。劇全体はコメディで笑いに包まれ、幅広いオーディエンスに受け入れられるよう、どの登場人物の視点にも共感できるよう配慮されている。この作品の「トゲのなさ」はゲイの養子縁組について扱ったNaufftsの短編、Baby Stepsにも言えることであり、90年代までの政治的主張のはっきりしたエイズ演劇と比較すると違いは顕著である。本発表ではNext Fallの政治性の有無を読み解きながらポストエイズのゲイ演劇について考えたい。


戸谷 陽子 お茶の水女子大学

 

2011年3月9日はTennessee Williams生誕100年にあたり、これを記念して今年は全米に限らず、世界各地で多くのWilliams作品が上演され、関連する催しが企画されている。1945年The Glass Menagerie、1947年A Streetcar Named DesireのBroadwayでの成功以来、Williamsの戯曲作品は全米各地で恒常的に上演され、また、大学では文学および演劇のテクストの定番となっており、20世紀アメリカを代表する劇作家としてのWilliamsの一般的な評価はゆるぎない。この評価はしかし、主に1940年代から50年代の限られた期間にかけて商業的な成功を収めた限られた作品に対してであり、晩年の作品のみならず、存命中のWilliams自身にも多くの批判が向けられたことも事実である。

Williams作品の上演の多くがその詩的な言語や抒情性に着目し、またBroadwayでの上演が代表するようないわゆる古典作品テクストの「再現」を目指してきたいっぽうで、1980年代後半以降、テクストを徹底的に「解体・脱構築」する上演が、いわゆるオルタナティヴ演劇に散見するようになった。生誕100年を記念し、とくに今年のニューヨーク市内では前衛演劇人によるパネルおよび上演がシリーズで企画されるなど、この傾向がさらに盛り上がっている。前衛の演劇人たちがWilliamsに興味をもつ背景には、彼らが上演において浮上するWilliams作品がもつ別の側面、すなわち、詩的な言語や抒情性の過剰さが生み出すキャンプ性や、クィアなセクシュアリティと身体性の表象、テクストの複層性に潜む体制転覆的な要素を興味の対象としていることが挙げられる。1990年代以降活発化したクィア批評により、こうした経緯は理論的にも確認されてきており、20世紀末から21世紀にかけて、Williamsテクストのもつ可能性の議論が大きく進展しているともいえる。また、Williamsの政治性やキャンプ性は、Marlon BrandoやPaul Newman、Vivian Leighといった映画作品の登場人物のイメージによって大衆に定着したが、近年のWilliams作品の上演に際しては、しばしばスクリーンのイメージが観客に共有されていることが前提となっているという事実も興味深い。

Williams作品のもつこうした新たな解釈の可能性をさらに検証するため、本発表では、生誕100年の今年展開された前衛演劇人によるWilliams作品上演の中でも、とくに「解体」が顕著な前衛作品Wooster GroupによるVieux Carré (Elizabeth LeCompte演出)、A Streetcar Named Desire(Lee Breuer演出)の上演テクストを主に参照しつつ、Williams作品のもつ前衛について考察する。これらの現代の前衛演劇人たちは、共通して高度なテクノロジーを駆使し、Williamsの時代には想像もできなかったような新たなイメージを供給するが、かつて人々の社会的現実の認識に大きく影響を及ぼし、また芸術文化の生産システムを大きく変え、消費文化のそれへと確立させる役割を担った映画という媒体とも比較し、新たな時代のWilliams作品上演の可能性を考察する。