1. 全国大会
  2. 第51回 全国大会
  3. <第1日> 10月13日(土)
  4. 第8室(全学教育棟本館S21講義室)

第8室(全学教育棟本館S21講義室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
石割 隆喜

1.互いの尾をむさぼり合う二匹の蛇——Tim O’BrienのIn the Lake of the Woods における動物のメタファー

  濟藤  葵 : 慶應義塾大学(院)

2.Collective Johnを追え—A Missing Narrator in In the Lake of the Woods

  田吹 香子 : 福岡女子大学(非常勤)

羽村 貴史

3.Sophie's Choiceのエピグラフへの策謀——技法か冒涜か

  渡邉 教一 : 弘前学院大学

4.Cynthia Ozick のゴーレム——ユダヤ伝説の蘇生

  大場 昌子 : 日本女子大学



濟藤  葵 慶應義塾大学(院)

 

Tim O’BrienのIn the Lake of the Woods (1994) は、1986年、ソンミ村の虐殺への関与と大隊員名簿の記録の書き換えによる事実隠蔽が発覚し、上院議員の選挙で落選してしまった主人公ジョン・ウェイドが、新たな人生をスタートさせるべくレイク・オブ・ザ・ウッズ湖へ妻キャシーと居を移すところから物語が始まる。ところが、新生活7日目に妻が行方不明になってしまう。小説の端々には、おそらく夫ウェイドが妻を殺害したのだろうという示唆がありながらも、小説の最後まで真実は明かされない。

H. Bruce FranklinやTimothy Melleyをはじめとする批評家は、この作品を、ソンミ村での悪夢や妻殺害の記憶を消し去ろうとするウェイドの個人的忘却と、ソンミ村の虐殺やそれ以前に起きた大量虐殺の記憶をアメリカの歴史から抹消しようとする合衆国全体の国民的忘却とを関連づけて論じている。これらの先行研究が示すとおり、ウェイド自身と合衆国の忘却は、本作品において大きな主題となっている。しかし、本発表において注目したいのは、ウェイド個人や合衆国の忘却したい記憶、罪の意識が、小説内に登場する動物のメタファーと深く関係しているという点である。

ウェイドの脳裏には二匹の蛇の映像がこびりつき、6回にわたり呼び起こされる。それは、彼がヴェトナムで見た、互いの尾をむさぼり合う二匹の蛇のことである。大学時代にキャシーの尾行に心血を注いでいたウェイドは、自らを蛇に見立てるとともに、彼女に自分たちもコブラのようにむさぼり合おうと言う。この蛇が食べるという描写は、アルコール依存症だったウェイドの父親が息子のことを“Jiggling John”と執拗に呼び続けたという、ウェイドが忘却したい少年時代の記憶とも関わりをみせる。一方、ウェイドに追われるキャシーは、泳ぎが上手く魚同然でとらえがたい存在として描かれ、魚のメタファーを用いて表現される。このように、キャシーが魚にたとえられていることは、ヴェトナム共産党のTruong Chinhがゲリラ戦を制するために説いた魚のメタファーを想起させる。さらに、舞台であるレイク・オブ・ザ・ウッズ湖も大きな動物の組織のようだという記述がある。もともとはインディアンを駆逐して開拓されたこの湖で、ウェイドは発狂する。インディアンに関する言及はこれにとどまらない。“John! John! Oh, John!” という、リトルビッグホーンの戦いでカスター将軍側のある兵士が泣きながら助けを懇願して発したとされる叫び声が3度も繰り返される。通常白人がインディアンに向かって呼びかける“John”というこの言葉を含んだ叫びは、合衆国のインディアン虐殺という罪の意識を思い起こさせると同時に、ジョン・ウェイドへの呼びかけも暗に示しているのだ。

以上のように、本発表では、今まで論じられてこなかったIn the Lake of the Woods に登場する動物のメタファーに焦点を当て、ウェイド個人のみならず合衆国全体が忘却したい記憶、罪の意識について考察したい。


田吹 香子 福岡女子大学(非常勤)

 

Tim O’Brienの In the Lake of the Woods (1995)は、前作The Things They Carried (1990)とは趣を異にするミステリー調の作品であり、失踪した妻Kathyを探す夫John Wadeの物語は、名前のない語り手を探偵に見立てた推理小説として読むことができる。だが実際は、語り手の焦点はKathyにではなくJohnに当てられ、次第にJohnのベトナム戦争従軍の過去や帰国後の彼の苦悩が物語の中心となることから、一般的な推理小説としては失敗に終わっていると言わねばならない。

ところが一方で、視点を変え、この語り手は作者O’Brienではないという前提に立ち、本作品を語り手がJohnではなく自分自身を探す物語として読むと興味深い解釈が可能になる。実際、この語り手はEvidenceという一連の章の脚注にのみIという主語を使って姿を現すため、批評家Mark A. HeberleやTobey C. Herzogの論に代表されるように、一般的には本作品は作者が作品に顔を出すメタフィクションだと捉えられている。しかし、語り手と作者の履歴が異なることや、小説に付けられた「本作品は架空の物語である」という但し書きを鑑みれば、二人は別個の人物だと考えるのが妥当であり、Iという語り手は作者が創りだした探偵として事件の全てを調査し語る役割を担う人物と考えるべきなのである。

そして、ここで注目すべきは、このような読者の読みの傾向こそが一つの問題—帰還兵という共通の履歴を持つ作者と語り手が自動的に同一人物とみなされるように、ベトナム戦争帰還兵は〈個人〉ではなく一つの〈集合体〉と考えられてしまうという現象—を浮かび上がらせるということだ。この現象の原因は批評家Marita Sturkenの「文化的記憶」論を援用すると分かりやすい。彼女は個人の記憶とは出来事そのものではないという前提で、記憶とはメディアに一旦回収された雑多な「個人の記憶」群が「文化的(集合的)記憶」に姿を変え再表象され、それを追体験した個々人にインプラントされてできるものだと論じる。特に映像を駆使した初の戦争と称されるベトナム戦争ではこの傾向は強かったのだが、Sturkenによれば、「文化的記憶」を自己の記憶と考える現象は一般市民に限ったことではなく、帰還兵本人たちにも広がっていたという。言い換えれば、戦争を体験した兵士たちまでもが、自身の記憶とメディアによって提示された「文化的記憶」の境目を見失ってしまう傾向にあったのだ。

この論は本作品に見事に当てはまる。というのも、語り手は同じ帰還兵であるJohnに共感し、彼を浮き彫りにしようとするように見えて、実は自らとJohnの境目を見失い、Johnを媒体にして自分だけの「真正な(authentic)」記憶を取り戻そうとしているからだ。しかし、問題となるのは、彼が追うJohnという人物にまつわる情報が果たして「真正な」ものであるかということだろう。

本発表では、この名前を持たない語り手に注目し、ベトナム戦争時代に生きた彼が「真正な」出来事、自らの記憶を「文化的記憶」の中で見失い、自分自身の声を持つことができない様子を検証したい。


渡邉 教一 弘前学院大学

 

簡略に言えば、アウシュヴィッツ収容所でからくも生き残った一人のポーランド人女性の呵責への気高い殉教が主要テーマと解されるSophie’s Choice (1979)はWilliam Styronが著した600余ページに及ぶ生涯最後の長編物語である。『ソフィーの選択』は、大まかに言えば、わずか28ページばかりの第1章が作品全体のテーマのすべてが凝縮された序章として位置づけられていると解され、第2章から最終章までの約600ページは第1章のテーマを基軸としたいわば二番煎じ的、且つ、厖大な想像の遊びという構造になっていると言える。この点において、『ソフィーの選択』という作品はその仕組み上スタイロンの他の作品には見られない文学的実験の色濃い唯一異端的作品と言っていい。なお、この作品はアメリカ大衆の関心を引き、200万部を突破する大ベストセラーの勢いを見せ、全米図書賞を受けた。

しかし、実を言えば、『ソフィーの選択』がそれほどに名誉ある評価に値する作品と言えるのかが問い直される重要な問題点が見え隠れしていると私は解釈する。つまり、その重大な問題点とは、この作品に施されたスタイロンの策謀を「文学的技法」と解すべきなのか、または道義上の「冒涜」と解すべきなのかという正にスタイロンの作家としての本質を突き詰めることにつきる。いずれにせよ、本論において、このような本作品の評価を左右しかねない重要な疑問点を解明することは至難のわざなのだろうか。

さて、問題になるスタイロンの策謀とは以下の如く『ソフィーの選択』の冒頭にエピグラフとして掲げられたAndré MalrauxのLazare からのフランス語の抜粋文のスタイロンによる英語訳にあると言っていい。

…je cherche la région cruciale de l’ âme, où le Mal absolu s’oppose à la fraternité.

…I seek that essential region of the soul where absolute evil confronts brotherhood.

すなわち、このフランス語の抜粋文の中の“s’oppose” というフランス語の動詞をなぜスタイロンは“opposes” ではなく、“confronts” という英訳にしているのかということである。というのは、この場合、“s’oppose”の英訳として“opposes”ではなく“confronts”を採用すると、マルローの原文の抜粋文の正確な英訳とは言えなくなり、ひいては本作品の全体的なテーマの中の一部を欠落させてしまうことになるのである。いったいなぜスタイロンはあえてこのような初歩的ミスともとれる不可解な英訳を敢行したのであろうか。

結局、仮にこのようなスタイロンによる原文のエピグラフの明らかに誤訳と考えられる不可解な英訳をスタイロン自身が仕掛けた意図的な策謀だと解釈したならば、いったいその狙いとは何なのか。さらには、そのスタイロンの仕掛けた策謀が果たして「文学的技法」と言えるのか、あるいはマルローや一般読者に対する道義上の「冒涜」に値するのか等々を本論において探ってみたい。


大場 昌子 日本女子大学

 

ゴーレムとはユダヤの伝説に登場する、土でできた人造人間のことである。16世紀のプラハで、ユダヤ教の宗教的指導者であるラビのユダ・レーヴがゴーレムを作ってユダヤ人に対する攻撃を防いだという話がつとに有名だが、ゴーレム伝説の歴史は古く、たどれば遠く聖書での記述にまで遡る。一方、20世紀でもゴーレム伝説は様々な形で文学作品や映像作品において扱われ、とくに20世紀末、ユダヤ系アメリカ人作家たちの作品にゴーレムが次々登場していることは興味深い現象である。

本来、ゴーレム伝説にはユダヤ神秘主義が深く関わっており、ゴーレムを作れる者はラビのみで、作る過程では宗教的な一連の儀式をともなう。そのもっとも特徴的な儀式は、形成された土人形に生命を吹き込む際、その額にヘブライ語で「真理」を意味する文字4字を刻むことである。逆に生命体としてのゴーレムを機能停止させるには、4文字の内の1文字を削り取り、残る3文字がヘブライ語で「死」を意味し、ゴーレムは土に戻される。ユダヤの人造人間ゴーレムは、その存在が言葉と不可分という属性を賦与されているのである。

Cynthia Ozick (1928- )のThe Puttermesser Papers (1997)はルース・プッターメッサーという女性を主人公とする5つの短編からなり、その中の “Puttermesser and Xanthippe”にゴーレムが登場する。46歳のプッターメッサーは愛人に去られ、勤務先のニューヨーク市役所においても理不尽に降格される中、動機は明かされないままに、観葉植物の鉢植えから土を取り出し、それを水道水でこねて、少女のゴーレムを作る。出来上がったゴーレムは、伝説のゴーレムと同じく発話はできないものの筆談ができ、自らクサンチッペという名前を要請する。クサンチッペはプッターメッサーを「お母さん」と呼んで家事を引き受ける一方、プッターメッサーの指示もないのに「お母さん」をニューヨーク市長にするべく獅子奮迅の働きをし、プッターメッサーは見事市長に当選する。市長に就任したプッターメッサーはクサンチッペに命じて荒廃したニューヨークの「蘇生」を図り、まもなくニューヨークはまるで理想郷のようになる。ところが、日々身体が成長するクサンチッペはやがて生殖願望に駆られ、理想の男性を求めて次々と男性を襲い始め、同時にクサンチッペの貢献を失ったニューヨークは荒廃の一途をたどる。もはやクサンチッペを放置できなくなったプッターメッサーは、これも伝説どおり、クサンチッペの額の1字を削って土に戻し、物語は終わる。

このように本作品では、フェミニストと紹介される女性を中心に、ゴーレム伝説のフェミニズム的書き換えともいえる話が展開する。しかしながら、オジックのゴーレム物語では、ラビ・レーヴの伝説とは異なり、女性市長プッターメッサーの功績はすべて消失する。発表では、本作品におけるゴーレム伝説の書き換えが、単なるフェミニズム的企てに終わっていない点を検証しながら、現代に「蘇生」するゴーレムの表象について考察したい。