田吹 香子 福岡女子大学(非常勤)
Tim O’Brienの In the Lake of the Woods (1995)は、前作The Things They Carried (1990)とは趣を異にするミステリー調の作品であり、失踪した妻Kathyを探す夫John Wadeの物語は、名前のない語り手を探偵に見立てた推理小説として読むことができる。だが実際は、語り手の焦点はKathyにではなくJohnに当てられ、次第にJohnのベトナム戦争従軍の過去や帰国後の彼の苦悩が物語の中心となることから、一般的な推理小説としては失敗に終わっていると言わねばならない。
ところが一方で、視点を変え、この語り手は作者O’Brienではないという前提に立ち、本作品を語り手がJohnではなく自分自身を探す物語として読むと興味深い解釈が可能になる。実際、この語り手はEvidenceという一連の章の脚注にのみIという主語を使って姿を現すため、批評家Mark A. HeberleやTobey C. Herzogの論に代表されるように、一般的には本作品は作者が作品に顔を出すメタフィクションだと捉えられている。しかし、語り手と作者の履歴が異なることや、小説に付けられた「本作品は架空の物語である」という但し書きを鑑みれば、二人は別個の人物だと考えるのが妥当であり、Iという語り手は作者が創りだした探偵として事件の全てを調査し語る役割を担う人物と考えるべきなのである。
そして、ここで注目すべきは、このような読者の読みの傾向こそが一つの問題—帰還兵という共通の履歴を持つ作者と語り手が自動的に同一人物とみなされるように、ベトナム戦争帰還兵は〈個人〉ではなく一つの〈集合体〉と考えられてしまうという現象—を浮かび上がらせるということだ。この現象の原因は批評家Marita Sturkenの「文化的記憶」論を援用すると分かりやすい。彼女は個人の記憶とは出来事そのものではないという前提で、記憶とはメディアに一旦回収された雑多な「個人の記憶」群が「文化的(集合的)記憶」に姿を変え再表象され、それを追体験した個々人にインプラントされてできるものだと論じる。特に映像を駆使した初の戦争と称されるベトナム戦争ではこの傾向は強かったのだが、Sturkenによれば、「文化的記憶」を自己の記憶と考える現象は一般市民に限ったことではなく、帰還兵本人たちにも広がっていたという。言い換えれば、戦争を体験した兵士たちまでもが、自身の記憶とメディアによって提示された「文化的記憶」の境目を見失ってしまう傾向にあったのだ。
この論は本作品に見事に当てはまる。というのも、語り手は同じ帰還兵であるJohnに共感し、彼を浮き彫りにしようとするように見えて、実は自らとJohnの境目を見失い、Johnを媒体にして自分だけの「真正な(authentic)」記憶を取り戻そうとしているからだ。しかし、問題となるのは、彼が追うJohnという人物にまつわる情報が果たして「真正な」ものであるかということだろう。
本発表では、この名前を持たない語り手に注目し、ベトナム戦争時代に生きた彼が「真正な」出来事、自らの記憶を「文化的記憶」の中で見失い、自分自身の声を持つことができない様子を検証したい。