開始時刻 | 午後1時30分〜4時30分 |
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英語系カナダ文学とアメリカ(北海道支部発題)
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近年、少なからずのカナダ作家が国際的に認知されつつある中で、Alice Munroのノーベル文学賞受賞はカナダ文学が歴史と伝統に裏打ちされた実質あるものだということを改めて内外に示す機会となった。「カナダ文学など存在しない」「評価に耐える作品を生むには何世代かかかる」とさえ語られた、かつてのコロニアルな状況を思い起せば著しい変化である。
英語系カナダ文学は建国来、カナダ独自の伝統、いわばアイデンティティ追究に腐心してきた。その際つねに意識されたのは旧宗主国イギリスや隣国アメリカ合衆国との差異化の必要性である。1960年代から70年代にかけてのカナダ文化ナショナリズム高揚期に出版されたMargaret AtwoodのSurvival—A Thematic Guide to Canadian Literature(1972)はその典型である。英米とは異なる文学としての自己定義、とりわけ大国アメリカの影響からの脱却という問題を前景化したこの文学論において提示された「生き残ること」というシンボルはアメリカニゼーションの波に抗うカナダの精神的立ち位置を指し示すものでもあった。とは言え、多民族による複合的存在へと変貌した今日のカナダにおいては、一元的なカナダ性を想像すること自体、先住民や新たな移民、カナダ諸地域の多様性を抑圧することにもなろう。例えばケニア生れの移民作家M. G. Vassanji が主張するカナダの物語は「騎馬警官やホッケー、北方性ではなくて、つねに自身を調整し再定義し続けるカナダ」を映し出すものであり、具体的には移民が携えてくるアフリカ、アジア各地の土地や歴史の物語でもある。Survivalは時代遅れの書物となったのか。
しかしながらAtwood は2004年版に新たに加えたこの書の序で、「ケベック問題、国の統率力の喪失、合衆国による経済的支配の拡大によって、初版において暫定的だった警告が日常の現実になった」とし、カナダ的アイデンティティの問いは今も残されたままだと述べる。カナダの現況に対してAtwoodが促すのは、「私たちは本当に他の人々と異なっているのか、もしそうならば、どのようにか、そしてそれは保持する価値のあるものか」という問いの省察である。SurvivalにおいてAtwoodはカナダの植民地意識、犠牲者(被征服者)対 勝利者(征服者)という二項対立的思考を超えた地平への脱出を模索した。Atwoodにしても要諦はカナダを再定義し続けることであり、同時にカナダ文学が単に生き残ること以上の何かを創造することなのである。
本シンポジアムでは「保持する価値のある差異」の有無や意義という古くからのカナダ的アイデンティティの問題を英語系カナダ文学とアメリカとのさまざまな関わりの中で考える。仏語圏を有しながらも北米の同一言語圏にあることで国境の南側からはその存在が意識されることの少ないカナダ文学の一面を知ることはアメリカを映し出すもう一枚の鏡を差し出すことにもなるからである。
北海道武蔵女子短期大学 松田 寿一
ヴァンクーヴァーの詩のニューズレターTISHがブリティッシュ・コロンビア大学 (UBC)の学生Frank Davey、George Bowering、Fred Wahらの手で刊行されたのは1961年のことである。きっかけとなったのは当時UBCで講じていた米国人教授Warren Tallmanが招来した米詩人Robert Duncanの詩や講演、さらにDonald Allen編纂によるThe New American Poetry(1960)を通して学生たちがCharles Olson、Robert Creeleyなどの詩論にふれたことにある。彼らを刺激したのはそれまで一部のカナダ人にしか知られていないPoundやWilliamsに連なるモダニズムの最新の伝統であり、とりわけOlsonを理論的支柱とし、“ブラックマウンテン派”と呼ばれた詩人たちがそれぞれに追究する詩学であった。1963年までに19号、その後断続的に1969年まで出版され、カナダ詩の新しい動きの先駆けとなるTISH誌上の詩やエッセイにはOlsonらの影響が随所に見てとれる。またその間には実際にDuncanやCreeleyをはじめ、多くの米詩人たちがヴァンクーヴァーを訪れることになる。
一方、カナダの文化的ナショナリズムの気運が高まる1960年代から70年代前半はカナダ的なテーマを発見することで、英米とは異なる文学を自己確認する作業がさまざまに試みられた時期である。そのような折にカナダ性の探究からはあえて距離を置き、アメリカから持ち込まれた詩法に倣うTISHはカナダ詩の伝統をないがしろにするとの非難も受ける。Atwood、Michael Ondaatje、Boweringらがカナダを代表する詩人と称えたAl Purdy (1918-2000)もまたTISHの中心メンバーやOlsonらに対する批判者の一人であった。しかし詩の形式は感情の自然な流露によって決定されるとしていた点や特定の場所の感覚を掘り下げ、そのプロセスを自身に固有な言語で表現するなど、PurdyにはOlsonやWilliamsらの主張に通じる部分も多く見られる。従ってTISH批判の要因は彼らの詩学そのものにあるのではなくて、反アメリカ的な政治的心情の反映やカナダに以前からくすぶる国際派に対する土着派の反発の変奏と見えなくもない。しかしながらTISH の詩学の淵源をOlsonやWilliams、さらにイマジズムへと辿るとき、その系譜とは異質なPurdyの姿が浮かび上がる。米詩人の存在をつねに意識し、刺激を受けながらもPurdyの詩にはアメリカ発のモダニズム詩とは相容れない要素が見出されるのである。
本発表では“最もカナダ的な詩人”とも言われたPurdyのTISHとTISHが範とした“ブ ラックマウンテン派”、とりわけOlsonの詩や詩学との違和を探ることにより、カナダ詩史におけるアメリカ詩移入の一面に光を当ててみたい。
明治学院大学佐藤 アヤ子
「アメリカの隣に暮らすことは、象の隣に寝ているようなもの。この動物がどんなに友好的で冷静でも、ほんのちょっと動いたり鼻を鳴らしても、隣に寝ている人は影響を受けるのです」。こう語ったのは、1968年に首相の座に就いたPierre Elliott Trudeau。トルドーは、カナダ第一主義を掲げ、反米主義的な文化的・経済的ナショナリズム政策を実行した首相として知られている。
1960年代のカナダは、アメリカ系多国籍企業によるカナダの経済的、文化的領域への侵攻に対して、攻撃的な姿勢をとる若きカナダ人グループが勢力を得てきた時代でもあった。さらに、1967年の建国百周年を機に、カナダではナショナリズムの気運が高まり、旧宗主国イギリスの亜流でなく、隣の大国アメリカの「弟」芸術とみなされることのない独自の「カナダ的」な作品をカナダの芸術家たちは求め始めた。本発表では、このような時代思潮に鑑みながらカナダ演劇とカナダ小説が描き出した〈カナダらしさ〉を検証したい。
カナダ演劇界を一変させるような戯曲が1967年に初演された。George Rygaの傑作The Ecstasy of Rita Joeである。自らの民族の古い生活についていけず、また先住民にとっては決して居心地のよくない白人社会にも適応できず、社会の底辺に脱落していくカナダ先住民の悲哀を描いたドラマである。精神的に植民地状態にあるカナダ社会にとって、カナダの劇作家による、カナダに材を求めた〈カナダ原産〉の戯曲の成功は、カナダ演劇界が外国作品の輸入物だけに頼る必要がないことを証明した。さらに、公的資金援助によってカナダ演劇界にも発展のチャンスが広まり、トロントのタラゴン・シアターのようなカナダ独自の演劇を育成しようという劇場も誕生することになる。
Margaret Atwoodは、カナダ文学批評のカノンとも言える、Survival: A Thematic Guide to Canadian Literature(1972)で、カナダ文学には脈々と続く独自のアイデンティティというべきテーマがあることを確認してみせた。それは、「生き残ること」。しかし、モザイク化が進む現代のカナダ文学界にあって、〈カナダらしさ〉を見つけることは難しくなっているが、この「生き残り」のテーマが健在であることを、アトウッドの最近作〈MaddAddam〉三部作が明確に示している。
2013年、82歳でノーベル文学賞を受賞したAlice Munroもまた、〈カナダらしさ〉を演出してきた作家と言えよう。魅力的な仕事も華やかな生活もない閉鎖的な故郷のオンタリオ州南西部のヒューロン郡を舞台に、鋭い観察力と洞察力を生かして人々の心の機微を描いてきた。マンローは多くの作品を『ニューヨーカー』に発表してきた。しかし、カナダ的状況を極めて強く描写したマンロー作品は祖国カナダで歓迎され、注目を浴びる結果となった。「物語を書くことしか能力がなかった」と語るマンローにとって、書くことは「生き残る」手段でもあった。
北海道大学(名)野坂 政司
レナード・コーエン(1934- )は、まず詩人、小説家として認知されたのであるが、1970年代から80年代にかけて歌手として次第に知られていき、80年代後半にはスター歌手として広く大衆に受容されることになる。モントリオールに生まれ、カナダで成長するが、1955年にマギル大学を卒業して、ニューヨークに行き、コロンビア大学に通う。その後、59年にロンドンへ、60年にギリシャのイドラ島へ、モントリオールに一時戻り、61年にキューバへ、それからアメリカ、ヨーロッパ、カナダ、ギリシャと移動しながら、歌手として活動の枠を広げ、世界ツアーを繰り返しながら、現在に至る。
Web サイトThe Leonard Cohen Filesによれば、コーエンの歌のカバーバージョンが世界中で2,700以上あるという(http://leonardcohenfiles.com)。このことは、世界中の歌手たちにコーエンがいかに深く広く受容されているかを端的に示している。巨大な世界市場を持つ音楽産業の現場では、メディアを横断する複合的な広報宣伝力が駆使されており、その周辺にいるファンたちもネットワーク上で大量の情報を流通させており、カバーバージョンを制作した他の歌手たちのコーエンに対する高い評価があることなどが重なり合って、コーエンの歌手としての魅力はカナダという地域性を越えている。
コーエンの詩、小説、詞には、いろいろな角度から考察を加えることが可能であるが、ここでは、彼のChelsea Hotel No. 2を取り上げて、その詞の主題であるジャニス・ジョプリンとの出合い、それが生じた場であるニューヨークの伝説的なホテルへの想いなどを、コーエンの小説『嘆きの壁』の含意を方位学的研究における西部の文学の具体的な事例として繰り返し言及したレスリー・A・フィードラー『消えゆくアメリカ人の帰還?アメリカ文学の原型III ?』を参照しながら、考察してみたい。フィードラーは、コーエンとキージーとにおいて、「初めて狂気と『西部』との究極的な一致が完成し…」と指摘しているが、コーエンのチェルシー・ホテルとは、フィードラーが『嘆きの壁』に見た「西部」が象徴的に具体化された「場所」であると考えてみたい。そして、コーエンの詩(詞)を読み解くために、「場所」がどのような視角を提示することになるかを考えてみたい。
北海道情報大学荒木 陽子
E.ポーリン・ジョンソンは、現在のオンタリオ州でモホーク族の父とアメリカ合衆国経由で英領カナダに移住したイギリス生まれの母の間に生まれた。生涯独身を通した彼女は、19−20世紀転換期の北米を英語系の白人を聴衆とする作家・パフォーマーとして生き抜くために、北米英語圏に住む先住民として、そして白人として、英・米・加、そして先住民の文化リテラシーを駆使し、必要に応じて自らの人種的・文化的遺産における力点を変え活動を続けた。本報告はその変遷に当時の北米の文化状況が影響した点を検証していく。
ジョンソンは1867年の連邦結成後に起こったカナダ文芸ナショナリズムの中で、英国への忠誠を誓い国境のカナダ側に移住したロイヤリスト・モホーク族の子孫、ポスト・コンフェデレーション時代のカナダ・ナショナリストとして、時にアメリカを差別化しながら自らのカナダ性を演出し、カナダの白人聴衆に自らを「ロイヤリスト」、「カナダ人」として売り込むことで文壇に頭角をあらわした。一方で活動の幅を広げてゆく過程で、ジョンソンは「アメリカ」に訴えるとともに、自らの「先住民性」を強調していく。ジョンソンの反米感情は先行研究により知られるところであるが、彼女は自らの先住民性を商品化する際には、オーディエンスの間で知名度の高いアメリカの詩人ヘンリー・ワズワース・ロングフェローの『ハイアワサの歌』(1855)に登場するミネハハをモデルに独自の先住民風の衣装を創り、それをステージ衣装とした。また、失敗に終わるものの、文芸マーケットが脆弱で作家がアメリカの市場、特に雑誌に作品を発表し生計をたてることが常態化していたこの時代に、ジョンソンも親戚であり、同世代のカナダの男性詩人を積極的にアメリカの雑誌に紹介したウィリアム・ディーン・ハウエルズを頼り出版の機会を求めた。
そして反米感情や当初の失敗にもかかわらず、20世紀に入りパフォーマーとしての活動から引退したジョンソンの生活の大きな支えとなったのは、彼女が「売れる作品形式」を研究した上、自らの「カナダ性」と「先住民性」を搾取して生産し、アメリカの少年・婦人向けの雑誌に提供した、「カナダの先住民」を取り扱う短編小説群であった。作家・パフォーマーとして自立を目指した複合的アイデンティティを持つカナダ人女性ジョンソンにとって、アメリカとは自らのバックグラウンドの力点を変えるように、オーディエンスからの需要により如何様にも利用できる文化的資源であり、時に「失われた故郷」、「カナダへの文化供給者」、そして「他者」としての自らを売り込むことのできる市場として機能する、生存に必要不可欠な存在であった。