北海道情報大学荒木 陽子
E.ポーリン・ジョンソンは、現在のオンタリオ州でモホーク族の父とアメリカ合衆国経由で英領カナダに移住したイギリス生まれの母の間に生まれた。生涯独身を通した彼女は、19−20世紀転換期の北米を英語系の白人を聴衆とする作家・パフォーマーとして生き抜くために、北米英語圏に住む先住民として、そして白人として、英・米・加、そして先住民の文化リテラシーを駆使し、必要に応じて自らの人種的・文化的遺産における力点を変え活動を続けた。本報告はその変遷に当時の北米の文化状況が影響した点を検証していく。
ジョンソンは1867年の連邦結成後に起こったカナダ文芸ナショナリズムの中で、英国への忠誠を誓い国境のカナダ側に移住したロイヤリスト・モホーク族の子孫、ポスト・コンフェデレーション時代のカナダ・ナショナリストとして、時にアメリカを差別化しながら自らのカナダ性を演出し、カナダの白人聴衆に自らを「ロイヤリスト」、「カナダ人」として売り込むことで文壇に頭角をあらわした。一方で活動の幅を広げてゆく過程で、ジョンソンは「アメリカ」に訴えるとともに、自らの「先住民性」を強調していく。ジョンソンの反米感情は先行研究により知られるところであるが、彼女は自らの先住民性を商品化する際には、オーディエンスの間で知名度の高いアメリカの詩人ヘンリー・ワズワース・ロングフェローの『ハイアワサの歌』(1855)に登場するミネハハをモデルに独自の先住民風の衣装を創り、それをステージ衣装とした。また、失敗に終わるものの、文芸マーケットが脆弱で作家がアメリカの市場、特に雑誌に作品を発表し生計をたてることが常態化していたこの時代に、ジョンソンも親戚であり、同世代のカナダの男性詩人を積極的にアメリカの雑誌に紹介したウィリアム・ディーン・ハウエルズを頼り出版の機会を求めた。
そして反米感情や当初の失敗にもかかわらず、20世紀に入りパフォーマーとしての活動から引退したジョンソンの生活の大きな支えとなったのは、彼女が「売れる作品形式」を研究した上、自らの「カナダ性」と「先住民性」を搾取して生産し、アメリカの少年・婦人向けの雑誌に提供した、「カナダの先住民」を取り扱う短編小説群であった。作家・パフォーマーとして自立を目指した複合的アイデンティティを持つカナダ人女性ジョンソンにとって、アメリカとは自らのバックグラウンドの力点を変えるように、オーディエンスからの需要により如何様にも利用できる文化的資源であり、時に「失われた故郷」、「カナダへの文化供給者」、そして「他者」としての自らを売り込むことのできる市場として機能する、生存に必要不可欠な存在であった。