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司会 | 内容 |
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武田 悠一 |
1.トラウマ記憶と生存本能 —— Nella Larsen の Quicksand 再考 渡久山 幸功 : カリフォルニア大学デイビス校(院) |
2.Annie Dillardのまなざし —— Holy the Firm におけるフィルター・ヴィジョン 熊本 早苗 : 東北大学 |
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今村 楯夫 |
3.欲望の対象としてのアラスカ——Ken Keseyの Sailor Song (1992) について 馬場 聡 : 筑波大学(院) |
4.生存者David Toddの終りなき任務 —— Tim O'Brien の July, July 野村 幸輝 : 旭川大学(非) |
渡久山 幸功 カリフォルニア大学デイビス校 (院)
Nella Larsen の処女作Quicksand (1928) は、女性主人公Helga Crane の経験と成長を描いた作品であるが、単純なBildungsroman やinitiation story の形式の物語ではない。また、19世紀後半から20世紀初頭に全盛を極めた自然主義 (naturalism)の枠組み (遺伝や環境) だけでは説明できない複雑な問題を孕んでいる作品である。特に作品分析において最も障害となっているのはHelgaの行動・意思決定の不可解さである。その顕著な例は、彼女はヨーロッパに渡り、人種差別のほとんどない社会で幸福な生活を送る機会を得たにもかかわらず、まるで彼女の身体がそのような安住な暮らしを拒絶するかのように、アメリカに帰国し、偏見と抑圧に満ちた共同体にとどまる道を選択するのである。彼女の黒人社会の共同体への帰還は故郷へのノスタルジアやアイデンティティ確立の概念だけでは説明できないように思われる。
サン・フランシスコ州立大学名誉教授で、カウンセラーである Mariko Tanaka 氏は、幼児期のトラウマの定義を拡げ、通常大人から見ればトラウマとはなりえないように見える些細な出来事・体験も、子供にとってはトラウマ記憶として凍結保存され、成長してからの人生に大きく影響を与えると主張している。その理論で特に強調されるのは、トラウマ体験によって構築された「信じ込み」 (belief system) がその後の人生体験・意思決定に重大な影響を及ぼすという帰納法的な仮説であり、示唆的である。
Helga は、異人種間結婚の所産の不純物の証とでもいうように、白人の実母に再婚を機に裏切られ、アメリカ白人中心社会において自らの黒人社会・文化に、そしてキリスト教の教えの中に、希望を見つけ出そうと必死にもがく。しかし、Helga を待ち受けているものは、小説のタイトルが示唆するように、アメリカ社会という「あり地獄」の中で、身動きできず、確実に飲み込まれていく無力な自分自身との対峙である。私が最も注目する点は、Helgaがそのような社会の不正・偏見のみならず、自分の夢や希望をも充分に認識していながら、彼女の意思と矛盾したような行動を選択することである。大学教育を受ける機会に恵まれ、知性に裏打ちされた理解力を持ちながら、何故理想的な方向に自分の人生の舵を取らないのか。黒人女性にとっては、アメリカ社会は黒人蔑視・偏見による人種差別と家父長制による性差別の「二重抑圧」の社会システム以外のものではなく、黒人女性の自由な行動選択が困難なのは明白な事実である。しかし、外的な社会的抑圧の構造とHelgaの内的な精神状況が密接に結びついた相互補完的なメカニズムを考慮しない限り、彼女の不可解かつ、明らかに非論理的な行動を理解するのは不十分であるように思われる。
今回の発表では、トラウマ記憶のメカニズムを機軸とした精神分析理論を援用し、Helgaの矛盾した (ように見える) 行動・意思決定がトラウマ記憶によって構築された「信じ込み」によって大きく影響されている可能性を指摘し、そのトラウマ記憶と「信じ込み」が彼女の根源的な生存本能として機能しているとする仮説を提示したい。
熊本 早苗 東北大学
Annie Dillard(1945- )は、1970年代から80年代にかけてノンフィクション作品を中心に執筆し、Pilgrim at Tinker Creek で1975年ピューリッツァー賞を受賞した作家である。Ian Bickfordが述べているように、Dillard作品批評では専らPilgrim だけがとりあげられ、作家としての独自性の萌芽が顕著となるノンフィクション二作目Holy the Firm は充分に分析されていない。これまでHoly the Firm は自然界におけるグロテスクな側面のみを強調している作品であると見なされてきたが、Dillard作品のグロテスク性が何を意味しているのかについての分析はまだ発展途上にある。グロテスクという形容は、視覚を通じた美醜の価値観であるだけに、Dillard作品における「見る」行為を分析することはますます緊要であると思われる。Scott Slovicが指摘したように、環境文学に本質的である視覚中心の描写が、Holy the Firm においていかに展開されているのかを考察する必要がある。
本報告では、Holy the Firm における語り手の眼差しというものに焦点をあてながら、その自然描写の方法を分析する。それによって、〔1〕自然を観察する方法に関するDillardの独自性を究明し、〔2〕その独自性によっていかなる自然観が提示されているのかを考察する。すなわち、Dillard作品における、視覚中心主義的な自然描写に着目し、Dillardの自然観を抽出することにより、環境文学におけるDillardの現代的意義を明らかにする。このことにより、視覚中心主義的な環境文学は現代においてどのように展開しているのかを示すことが出来ると思われる。
Dillard作品には、「半透明」なレンズといった、ある種のフィルターを通して観察する描写方法が効果的に用いられている。フィルター・ヴィジョンは、自然という小宇宙を観察する高精度のカメラや顕微鏡の眼差しとしても現れてくる。報告においてはHoly the Firm のフィルターの中でも、特に炎や窓ガラスを通して得られる新しい世界観・自然観をフィルター・ヴィジョンと名付け、その展開を探ってゆく。Dillardは、自然対文明や、生と死のように、諸事象を二つを分けて対極的に捉えるのではなく、それらを半透明化=フィルター化して示している。この方法には、生と死、天と地のように対立的に描く伝統を脱し、複眼的まなざしで複数の真実を表現しようという姿勢が見られるのである。したがって、これまでグロテスクな作家とのみ把握されてきたDillardであるが、実は、そのグロテスクな描写は、残酷の中の美を捉え相対的に真実を捉える眼差しによって為されているのである。
馬場 聡 筑波大学(院)
One Flew Over the Cuckoo’s Nest (1962)の出版によりアメリカ対抗文化の旗手としての地位を確立したKen Kesey (1935-2001)の長編小説Sailor Song (1992)の舞台は、近未来のアラスカに設定されている。Kuinakなる自然豊かな海沿いの町では、先住民と合衆国本土から移住してきた人々によって、漁業を中心とした生活が営まれているとされる。物語は先住民の民話“Shoola and the Sea Lion”を基にした映画を撮影するために、ハリウッドの映画スタッフがKuinakを訪れる場面で幕を開ける。静かな漁師町に突然沸き起こった映画撮影プロジェクトは、もの珍しさと撮影に伴う地域経済の活性化への期待から住民たちを熱狂させる。しかし、その一方で、町を取りまく自然環境と住民たちの伝統的な文化は大きく変化し、侵食されていく。
作品の主人公であるIke Sallasは、伝説のパイロットとしての過去を持つ漁夫である。物語では、彼がCIAの仕事でコカインやマリファナなどの植物を絶滅させるために、遺伝子組み換え作用を持つ化学物質を空中散布した過去の事実が明かされ、障害を持って生まれた彼の娘の死が彼の薬剤散布と関係していることが暗示される。環境汚染の加害者/被害者であるIkeは、Kuinakの町をロケ地にし、撮影後は町全体をテーマパークにしようと画策するハリウッド産業に対して反旗を翻す。
この作品には注意を払わねばならない二つの特異なテクストが埋め込まれている。ひとつはIsabella Anootkaなる架空の作家によって書かれたとされる民話“Shoola and the Sea Lion”の物語である。この民話は、実はKesey自身の創作であり、子供向けの物語The Sea Lion: A Story of the Sea Cliff People (1990)として既に出版されている。もうひとつの特異なテクストは、作品の最後に“Appendix”として収録されている、Kuinakの自然環境に関する擬似科学的な文書である。これら二つの興味深いテクストは、物語本体と絡み合いながら、中心をなす物語を補完する役割を果たしている。
作品の冒頭において描かれるアラスカは、開発の手が完全には及んでいない「最後のフロンティア」であるが、随所に散見される世界各地からやってくるツーリスト、開発業者、投資家、ハリウッドのスタッフたちの存在は、グローバリゼーションの時代における危機に瀕した辺境地域の姿を浮き彫りにしている。本作品において、Keseyは1960年代対抗文化への言及を随所に盛り込みながら、危機に瀕したアラスカの姿を描き、反グローバリズム的な抵抗言説を提示している。つまり、1960年代に培われたKeseyの抵抗姿勢は、最後のフロンティアを舞台に、その形を変えて、地域の文化と自然を脅かすハリウッド産業に対する抵抗として持続しているのである。
発表では、グローバル化する現代において、開発者たちの欲望の対象とされる「アラスカの表象」に目を向け、作品に潜在する反グローバリズム言説を明らかにしたい。
野村 幸輝 旭川大学(非)
Tim O’Brien(1946- )のJuly, July (2002)は、1969年7月から2000年7月までの、ベトナム世代の同窓生たちの遍歴を綴れ織った小説であるが、その男女の中に戦争体験者David Toddがいる。戦場で歩兵小隊の隊長だった彼は、誤った判断によって自分の隊を敵の待伏せ攻撃に遭わせ、隊を全滅させてしまう。自身も両足に重傷を負う一方、幻聴の中に聞こえてくるもう一つの声Johnny Everとの交渉の末、隊唯一の生存者として帰還を果すものの、戦後は罪の意識に苛まれ、痛みを隠蔽し、苦悩の世界で葛藤する。本発表では、戦闘トラウマにおける想像力や幻覚の役割を議論した上で、分裂したふたつの自己の間における葛藤の中に生き残りへの可能性を模索することで生存者としての任務を果そうとするDavidの姿について考察していきたい。そして、彼の物語に達観者とも悲観者とも読める存在Johnnyを忍び込ませた自伝的作家O’Brienの意図するものを探りたい。
事実、Davidの物語には頻繁にJohnnyの声が介入し、彼の運命を予言する。戦場での数日間が第2章に描かれており、そこでのJohnnyは、瀕死のDavidを生き永らえさせるための話し相手として機能する。一方、戦後の人生を描く第21章でのJohnnyは、無難に社会復帰を果そうとするDavidの脳裏に亡霊のように付きまとい、果ては罵り声として寝言にも登場し、妻Marlaを狼狽させる。離婚後、Davidはあらかじめ想定した/された償いの人生に没頭するあまり、妻との人生を創り得なかったそれまでの生き方を内省するようになる。しかし、Johnnyを単なる悪役と断定することもできない。と言うのも、JohnnyはDavidに戦場での惨事、つまり過去を想起させることで、彼の目前にある生を意識させる役割を果しているからである。また、Johnnyの全知的な語りから判断して、この声の正体が、ベトナム戦争の戦後トラウマを熟知、経験してきた中年帰還兵O’Brien自身であろうことは想像に難しくないし、そのような作家が主人公に自殺ではなく、苦悩と内省の人生を選択させることは当然だろう。このように、David Toddの物語には、過去の忘却や抹消にではなく、死への忠誠と生への愛着、沈黙と剔抉の狭間における終りなき相剋の中に生き残りの道を探ろうとする生存者Tim O’Brienの姿すら見え隠れするのである。